宮田塾のブログ

国語&入試国語 の記事一覧

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万葉集とアリサ・フランクリン

たまには万葉集の話でも。

この間、万葉集を流し読みしていた時に見つけた歌です。万葉集2633、詠み人知らず。現代語訳は中西進・講談社文庫版の万葉集から引用しました。

真澄鏡 手に取り持ちて 朝な朝な 見む時さへや 恋の繁けむ

(現代語訳) 真澄鏡を手にとって毎朝見る、そのようにいつもあなたが見られる時でも、あなたへの恋はしきりでしょう。


「真澄鏡」は「まそかがみ」と読みます。美しく澄み切った鏡のことです。奈良時代であれば、貴重なものであったことと思います。それを「朝な朝な」使うのですから、詠み人はそれなりに高貴な人だったのでしょうか。男が毎朝鏡を見るのもあまり詩的ではないので、ここは女性が毎朝鏡を見ていると考えるべきでしょう。

ここからは私の想像。うら若き女性が毎朝鏡を見ながら美しい黒髪をくしけずる。その時に想うのは愛しい恋人のこと。次に逢えるのは何時かしら。逢えないから想いがつのるんだと人は言うけれど、私の恋はそんな弱いものじゃない。あの人と一緒に暮らして、この真澄鏡のように毎朝毎朝会えるようになっても、この恋の激しさは少しも変わらないの。

実はこの和歌を読んで瞬間的に思い出したのは、アリサ・フランクリンの「I say a little prayer (小さな願い)」です。電気が走るように和歌とアリサ・フランクリンの歌がスパークしました。



この歌、本当はバート・バカラックが作ってディオンヌ・ワーウィックが歌ったのが先ですが、やっぱり私にとっては昔から聴き続けてきたアリサのバージョン。

アリサ・フランクリンと言えば、The Queen of Soul と呼ばれることから分かるように、大御所中の大御所です。彼女の影響を受けていない黒人女性シンガーは皆無だと言ってもいいかもしれません(オバマ大統領の就任式にも彼女が出てきて祝いの歌を捧げていました)。

今ではずいぶん迫力のある(?)女性になったアリサですが、若い頃の彼女はこんなに可愛いくて純粋な歌を歌っていました。ここに現れる、若い乙女のいじらしい感情は、本当に永遠の命を持っていると感じます。

The moment I wake up
Before I put on my make up
I say a little prayer for you
While combing my hair now
And wondering what dress to wear now
I say a little prayer for you


(拙訳)
朝目覚めて
メイクアップするまでの間
あなたのために小さな祈りを捧げるの
髪をとかして
何を着て出かけようと思うときにも
あなたのために小さな祈りを捧げるの

鏡を見ながら愛しい人のことを想う若い乙女。万葉集と全く同じ着想ですよね。そうであれば、次の節で示される感情は、上記和歌の詠み人の気持ちと全く軌を一にするものだと言えるはず。

Forever and ever, you'll stay in my heart and I will love you
Forever and ever, we never will part
Oh, how I love you
Together, together, that's how it must be
To live without you would only mean heartbreak for me


つまり、永遠にあの人への愛が尽きることはない。




人の心は移ろいます。私も大人ですから、そんなことは百も承知です。でも、人には時に美しい感情が宿ることがあります。そして、その感情を昇華した作品は、古今東西を問わず人の胸を打つことも事実でしょう。

私はそんな作品に触れたくて、本を読んだり音楽を聴いたりしているのかもしれません。





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東大現役合格のお報せをいただく

昨日、嬉しいお報せをいただきました。

6年前、中学受験対策のために当塾に来ていた生徒さん・保護者様からのお報せです。見事、東大に現役合格されたとの由。おめでとうございます!

プライバシーに関わることですので、あえて進学された中学名は伏せますが、相性の良い学校との出会いが、彼(ここでは仮にA君とさせてもらいます)にとって、とても大きな意味を持っていたとのお話でした。もちろん、A君が中学進学後も謙虚に真面目に勉強に取り組んでいたことが一番の勝因だと思いますが、その努力を実らせる土壌である学校やご家庭も小さな要因ではなかったのでしょう。

A君が小学6年生だった頃のことをよく覚えています。かなり夜遅く、本人から電話が掛かってきました。曰く、私が宿題として出した入試過去問がどうしても思うように解けない。電話口の向こうで、彼は泣いていたのではなかったかと思います。

私が出題したのは、彼の第1志望としている中学校より少し下のランクの併願校の入試過去問だったはず。私の目からすると、その学校は例年、偏差値に比してかなり難しく癖のある国語の問題を出題します(個人的には良い問題だと思うけれど)。

普通の子なら「あまり出来ないけどまあいいか」と流すところだと思うんですよね。もちろん、それはそれで全然構いません。次回の授業で、持ってきてもらった答案を見て、私の方で点が取れるように指導・修正していくわけですから。

ただ、A君は子どもながらにそれを潔しとはしなかったんだろうと思います。電話口の向こうから伝わってくる真剣さに、私の方も居住まいを正さざるを得なかったことを覚えています。私が与えたアドバイスは概要こんなものだったかと思います。

「あのな、A君、この中学の国語問題は、みんな手こずるねん。そやから、あんまり気にしたらあかんよ。ちゃんと勉強したら、絶対に合格点は取れるから。」

「模試の問題と大きく違うのは、傍線部の近くだけにとらわれてはいけないこと。まだ入試まで時間はあるから、文章を大きく掴むように気を付けて何度か読んでみたらええよ。筆者は結局何を言いたいんやろって考えながら、文章の骨組みを掴むこと。それが一番大事やで。そしたら細かいところも自然に見えてくるから。」

「この学校の抜き出し問題の答えは、傍線部から遠いところにあることが多いねんけど、出題される先生方の狙いは、文章の骨組みをしっかり捕まえてもらう、というところにあると思うよ。だからメチャクチャに探そうとせず、大枠を捕まえてみたらええよ。」

「また次の授業でいっしょに見ていくから、間違ってもかまわへんよ。できるとこまででええから気軽にやってみて。」

次回の授業に持ってきてくれた答案は、アドバイスをきちんと押さえたものでした。素直な子だな、こういう子は絶対に伸びるんだよなと思った次第。今回の東大合格もその延長線上にあるのでしょう。

ぶれることなく真面目に努力を重ねる。成功はその先にしかありません。曲がりなりにも人に教える仕事をしていると、そのことが痛感されます。いや、本当に。

ともあれ、東大でもしっかりと勉強されて、有為の人材として社会に羽ばたかれることを期待しています。頑張って下さいね!




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鳴き声からできている漢字

前回、「殺鼠剤」の話題でしたが、それに関連して。

(ねずみ)」の音読みは「ソ」または「ショ」であって、「チュウ」ではありません。そもそも「鼠」という字は象形文字です。次の写真を見て下さい。

(以下に掲載する写真は、いずれも講談社『新大字典』を撮影したものです。『新大字典』は私の最も愛する漢和辞典の一つ。なぜか現在のところ絶版。)

2016022603.jpg

字源のところ、とてもわかりやすい絵ですよね。「鼠」という文字は、ネズミの頭・歯・足・尾をかたどった絵文字であることが理解されると思います。そんなわけで「チュウ」とは読めない。

「そもそも鳴き声が音読みになるなんてありえない。『犬』の音読みが『ワン』になるじゃないか。子どもじゃあるまいし。」そうお思いかもしれません。しかし、実は鳴き声が音読みになっている動物漢字は珍しくありません。

例えば「(ねこ)」。

2016022604.jpg

音読みは「ビョウ・ミョウ」ですが、「苗(ミョウ)」の部分が音符、つまり発音を表す部分になっている形声文字です。ネコって「ミャーミャー」と鳴きますよね。昔の中国人はその鳴き声を「ミョウミョウ」と聞いたわけです。要するに「鳴き声+けものへん」で漢字になっている。

(はと)」もその一つ。

2016022605.jpg

音読みは「キュウ・ク」ですが、「九(キュウ・ク)」の部分が音符になっている形声文字です。ハトは「クークー」と鳴きますよね。昔の中国人もその鳴き声を「キュウキュウ」または「クークー」と聞いたわけです。これまた「鳴き声+鳥」からなる漢字。

読み方が覚えにくい?では、こんな四字熟語を覚えてはいかがでしょう。

猫鼠同眠」「びょうそどうみん」と読みます。猫とネズミが一緒に生活することで、上役と下役がなれあいで悪事を働くことを喩えています。

今日はこんなところだニャ。



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「殺鼠剤」は「さっちゅうざい」ではなく「さっそざい」

最近ネットで見かけた話題から。

「殺鼠剤」などを被害者に与え殺害した男が逮捕された、という事案なんですが、テレビニュースのテロップには次のように表示されていたらしい。

2016022601.jpg

2016022602.jpg

「殺鼠剤」は「さっそざい」と読みます。「さっちゅうざい」ではありません。ネズミだから「ちゅう」って……(笑)。ダジャレとしてはなかなか上出来だけど。

いやしくも報道番組で冗談テロップを流すはずもなく、おそらくは制作スタッフが真剣にそう思っての話なんでしょうが、ちょっと酷い。テロップを作る人だけではなく、校正的な仕事をするチェック係もいると思うんですが、全員が気付かなかったんでしょうか。

私はテレビをあまり見ませんが、出先で流れているテレビを見ていると、テロップの漢字の間違いに気付くことがあります。それもけっこう頻繁に。滅多にテレビを見ない私にしてそうですから、テレビでは間違った漢字表記がかなり流されているんじゃないかという気がします。

テレビ番組を制作する人の仕事が粗いのか、映像中心で文字なんてあまり気にしていないのか、はたまた人材的な質が低下しているのか。私にはよく分かりませんが、当塾で勉強してもらうといいなと思います。さりげなく宣伝。いやさりげなくないか(笑)。

以前、漢字勉強を指導していて、「殺虫剤」を「ころむしざい」と読んだ答案を見たことがありますが、これも考えてみると、ちょっと気の利いた読み方ですよね。虫が「コロっ」と死ぬ感じが出ていて。もちろん本当の読みは「さっちゅうざい」です。念のため。




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宮田国語塾合格実績(2016年度)

2016年度の宮田国語塾合格状況が整理できました。

合格まことにおめでとうございます。本当に立派な成績で、私としても嬉しい気持ちでいっぱいです。

一生懸命努力して、合格を勝ち取る。これは本当に尊いことです。今年もその場に立ち会わせてもらったこと、そして僅かながらでも協力させていただけたことに感謝致します。

素直にすごいなと思うんですよね。正直に言えば、「当塾が」すごいのではなく、「生徒さん達が」すごいという気持ちなんですけどね。あんなに難しい問題をよく小学生が解けるなあと。

個人特定につながるといけないので、詳しくは書けませんが、下記合格には「総合首席合格」や「学費全額免除特待合格」も数件含まれていることを付け足しておきたいと思います。

なお、コース名についてはできる限り正確を期しましたが、ひょっとすると間違いがあるかもしれません。その場合はご容赦をば。

中学進学後も頑張って下さいね!

< 宮田国語塾 2016年度 合格実績 >

灘中学校 2名
洛星中学校
六甲中学校
東大寺学園中学校
洛南高等学校附属中学校(女子)
西大和学園中学校(女子中等部)
西大和学園中学校(男子中等部) 2名
清風南海中学校(スーパー特進コース) 2名
高槻中学校 2名
海陽中等教育学校(特別給費生)
大谷中学校(医進コース)
明星中学校(特進コース)
奈良学園中学校(特進コース)
帝塚山中学校(特進コース)
帝塚山中学校(スーパー選抜クラス)
開明中学校(スーパー理数コース)
大阪桐蔭中学校(英数選抜コース) 2名
清風中学校(理IIIプレミアムコース)
清風中学校
大阪桐蔭中学校
履正社学園豊中中学校
岡山中学校
土佐塾中学校
愛光中学校 2名
函館ラ・サール中学校 2名




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合格おめでとうございます(2016年度・Part2)

昨日の記事の追加。本日いただいた合格の報せです。合格した生徒さん、保護者様、本当におめでとうございます。

こんな嬉しい日は、私も合格した生徒さんにあやかって勝利の美酒に酔いたいと思うんですが、アルコールが一切ダメなので、副代表と乳酸菌飲料で乾杯です(笑)。

 灘中
 愛光中
 西大和学園中
 大谷中(医進コース)
 帝塚山中(特進コース)
 開明中(スーパー理数コース)


(コース名称などはやや不正確かも分かりませんが、また集計の際に修正したいと思います。)

皆さん本当によく頑張ってくれました。

しみじみ思うんですが、難関に合格する人には何か共通性があるんですよね。一言では表しにくいんですが、勢いというか何というか。この件は、いずれ記事にしてみたいと思います。





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合格おめでとうございます(2016年度・Part1)

関西の私立中学入試もそろそろ終了。合格の報せをぼちぼち頂き始めました。合格した生徒さん、保護者様、本当におめでとうございます。私も心から嬉しく思います。

現時点で伺った合格校は下記の通り。今後増えてくるとは思いますが、とりあえず。

 高槻中
 清風中
 奈良学園中
 帝塚山中(スーパー選抜)
 清風南海中(スーパー特進)
 西大和学園中(女子中等部)
 洛南高等学校附属中(女子)

頑張った受験生、お疲れ様です。少し身体を休めて羽を伸ばして下さいね。




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最近読んだ本 『ヒキコモリ漂流記』『長いものに巻かれるな!』『中世の文学』『有頂天家族/二代目の帰朝』

年末年始に数冊本を読みましたが、とりわけ面白かったのは、山田ルイ53世の『ヒキコモリ漂流記』。漫才コンビ「髭男爵」の髭の方が、山田ルイ53世氏です(って分かりにくい表現ですね)。

壮絶な引きこもり生活を回顧する自伝なので、本来暗い話のはずなんですが、そこは芸人さん。とにかく文章が面白いんです。というより、山田ルイ53世氏は頭の良い人なので、誰もが楽しめる文章が書けると言った方がいいかもしれません。

またこの本の話は別記事にするとします。

あと、渥美由喜『長いものに巻かれるな!苦労を楽しみに変える働き方』も読みました。働くことに対するモチベーションの高い人だなと感心。

自身が発達障害のボーダーライン上(といっても決して愚昧な人ではありません、東大も出てらっしゃいます)、息子が難病、父親は要介護状態、仕事も超多忙……という方なんですが、こういう環境に置かれたら、多くの人がめげてしまう、人によっては鬱病にかかってしまうと思うんですよね。もちろん筆者ご自身にも葛藤はあっただろうと思うんですが、そこを柔軟に考えて、嬉々として状況に対応していらっしゃいます。

私は、知的な人の持つ明朗性というか楽天主義的な性質が大好きです。山田ルイ53世氏と渥美由喜氏は全然違うルートを辿ってこられたわけですが、知的な明朗性とでも言うべき点が共通しています。だから読んでいて楽しいんだと思います。

この二人の著書を読んで思い出したのは、モハメド・オマル・アブディン氏の『わが盲想』。盲目の大学生がスーダンの地を離れ日本に留学して立派な学者になるんですが、読んでいてとにかくわくわくさせられるんです。アブディンさんにも「知的な明朗性」を強く感じるんですよね。

この本、あまりに私が面白い面白いと連呼するので、妻も母も読みました。アブディンさんはスーダンについて聞かれると、「日本よりスーダン広い国です」と答えるそうなんですが、笑ってくれる人と、真剣に受け取る人がいるそうで。真剣に受け取る人はちょっと鈍すぎるんじゃ……?

この本の話もまたいつか。

あ、そういえば唐木順三『中世の文学』も読みましたが、ちょっと期待外れだったかな。得るものがなかったわけじゃないんですが、どうも主観的に中世文学を捉えすぎじゃないかと。偉そうにすみません。いずれゆっくりと研究してみたいと夢想しているジャンルなのです。

昨日到着した本は、森見登美彦『有頂天家族/二代目の帰朝』。この本、一作目も読みましたが、とても面白かったんですよね。モリミー、本当に素晴らしいストーリーテラーです。彼の作品は、どれもひたすらに京都(特に京大近辺)が舞台になっているので、私には手に取るように場面が目に浮かびます。四条の東華菜館の上を天狗がふわ〜っと飛んでいったりね(笑)。

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この作品もきっと楽しいに相違ないんですが、帯を読んでびっくり。TVアニメ化されたですと?累計30万部突破ですと?TVを見ないので知りませんでした。付録の森見新聞には、コミック版とかDVD全7巻とか書いてあります。なんかすごい人気者になっていたんだ……。

「待ちに待った毛玉物語、再び。愛おしさと切なさで落涙必至の感動巨編。」と記されているように、毛玉にまみれた狸達が主人公。ゆっくり読もう。

帯には「阿呆の道よりほかに、我を生かす道なし。」ともあるんですが、モリミーは「あほ」という言葉の使い方がすごく上手いと思うんですよね。

前作のページを繰るのは面倒なので、不鮮明な記憶で書いてしまいますが、「あほ子やから、ほっといたり。」といった表現に思わずにやりとした記憶があります。

関西弁を操る人なら分かっていただけるかもしれませんが、「あほ子」と「あほ子」とは、ニュアンスにおいてかなりの差があります。

「あほ子」の場合は、その「あほさ」が解消する可能性があります。つまり今という時期が過ぎれば「あほ」でなくなる可能性がある。勉強して賢くなったり、迷いから目が覚めてしっかりしたりという可能性が残されている。

一方、「あほ子」の場合、そうした可能性はほとんどない。生来的に「あほ」なのであって、どんなに頑張っても「あほ」からは脱出し得ない。死ぬまで「あほ」でいつづけるしかない。

あくまでも私の感覚で説明しているので、反論は大いにあり得ますが……。

上記のように考えると、「あほの子やから、ほっといたり。」という表現は、そう表現される相手にとって極めて手厳しいものということになります。憐憫の情を垂れられているわけです。

もちろん、「あほ」という表現には軽い愛情も含まれていますから(ここが関西弁のおもしろいところ)、どこか救いもある表現なんですけどね。

……と、ぐだぐだ書いている場合じゃなかった。早く寝て明日の仕事に備えなければ(笑)。



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『青い山脈』服部良一・西條八十・ブレイブコンボ

先日、往年の美人女優、原節子さんが亡くなりました。さすがにリアルタイムで見た女優さんではないので、特に感慨は無いんですが、彼女の代表作の一つに『青い山脈』があります。今日はこの主題歌について。

典型的なヨナ抜きのメロディ。美しい七五調の詞。作曲は服部良一、作詞は西條八十。当時の日本が誇る最高のコンビだと思います。

Wikipediaを見てみると、服部良一は大阪市天王寺区玉造で出生したとのこと。当塾のある玉造の大先輩です。「芸事好きの家族の影響で郷土の民謡である江州音頭や河内音頭を子守唄代わりに育つ」と記されているんですが、とても親近感を覚えます。個人的な意見ですが、江州音頭や河内音頭を聞かずして、日本の音楽が語れるはずはないんですよね。日本におけるアーバン・ダンス・ミュージックの嚆矢ですから。

『青い山脈』について調べてみると、「梅田から省線に乗って、京都に向かう途中のこと、日本晴れのはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちににわかに曲想がわいてきた」と服部良一が述べているようです。そうだとしたら、しょっちゅう訪れているところじゃないですか。さらに親近感。

服部良一はさておき、塾ブログとして注目したいのは西條八十の歌詞です。歌詞が耳にさらりと入ってくるのは七五調だからこそ。日本人の心の琴線に触れるのはやはり七五調です。(どうして七五調が日本人の心を揺さぶるのかについては、自分なりの考えを持っているんですが、長文になりそうなのでまた別の機に。)

あえて三番・四番の歌詞をご紹介します。

青い山脈
作詞:西條八十

雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ 見れば涙が またにじむ

父も夢見た 母も見た
旅路のはての その涯の
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく 若いわれらに 鐘が鳴る


声に出してみるとよく分かるんですが、音節数は下記の通り。すべての句が七音節または五音節になっています。

7 5
7 5
7 7
5 7 5

それでいて、若々しいムードが横溢しています。「青いかがやき」を「ふり仰いで」「涙をにじませる」のはまさに青春のイメージですし、「青い山脈・緑の谷」を「旅する若人」が「鐘の音」で祝福されるというのも、とてもフレッシュな色彩感覚・音感を感じます。

さらに私の分析を述べさせてもらいます(笑)。『青い山脈』というタイトル自体がもう名作の予感に充ち満ちています。「青い」という和語、「山脈」という漢語の取り合わせ。とてもバランスがいい。

『青いやま』、つまり、和語+和語だとインパクトに欠けます。また、『紺碧山脈』、つまり、漢語+漢語だと硬すぎますよね。やっぱり『青い山脈』しかない。

そもそも「青い」という言葉の選択自体が、音韻的にセンスがいい。「あ・お・い」という語は、いずれも母音。専門的に言えば、子音のように息が調音点(舌や歯や唇など)によって妨害されない音です。平たく言えば、声帯の振動が妨害されない形で声となっている。

「あおい」という語は、発音のまっすぐさ・汚れの無さが、「青」という色彩感覚にピッタリ合っている言葉です。

余談ですが、日本の国語教育において完全に欠落していると思うのは「理論に基づく日本語の音韻的側面」です。無視されているというよりも、誰も気づきもしていない、というのが正確なところでしょう。個人的には、音韻的側面を無視して日本語を十全に理解することなんてあり得ないと思っているんですが、この話も長くなりそうなので、別の機会に。

この純日本的なメロディと歌詞を、見事に、本当に見事に解釈してくれたアメリカのバンドがあります。その名はブレイブ・コンボ (Brave Combo)。カール・フィンチ率いる、ポルカをベースとしたバンドです。ポルカについて話すとまた脱線してゆくので、ここは我慢して(笑)、曲の解説を。

この曲は1990年に発表された『ブレイブ・コンボのええじゃないか』というアルバム(現在は廃盤)に収録されています。このミニアルバム、日本の曲をカバーしているちょっと変わった作品でして、坂本九やエノケンの曲も取り上げています。どれも逸品なんですが、アルバムの白眉はやっぱり一曲目を飾る『青い山脈』。

とてもセンスがいいと思うのは、イントロなしでいきなり「ア・オ・イ・サン・ミャ・ク」というコーラスから始まるところ。この辺り、ビートルズっぽい作曲法ですが、非日本語話者の感覚で、純粋に「ア・オ・イ」という母音が連続する音韻に反応してくれたんだと思うと、それだけで嬉しくなってしまいます。

軽快なポルカ・ロックに乗せて、一番は英語、二番はスペイン語で歌われます。歯切れのいいドラムがいいなぁ。ああ、やっぱり英語もスペイン語も音が美しいなぁ。

そして、ブレイクを挟んで三番と四番が日本語で歌われます。

雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ 見れば涙が またにじむ


なんてきれいな音の並びなんだろう!外国語の音も美しい。でもやっぱり、私にとっては日本語の音が何よりも美しく感じられる。しかも音だけでなく意味までもが麗しい。日本語が愛しすぎて、涙がこぼれそうになる瞬間です。

アメリカ人に日本語の音の美しさを教えてもらうのは、なんだか不思議な気もしますが、非日本語話者だからこそ起こし得た奇跡なのかもしれません。

少し大げさに書きすぎたかもしれませんが、ブレイブ・コンボのこのバージョンは本当に名曲。できれば大音量で聞いてみて下さい。

服部良一・西條八十のコンビには『蘇州夜曲』という名曲もあります。これもまた最高の一曲。また機会があれば。



ブレイブ・コンボのヴァージョンは、ニコニコ動画にしか見つかりませんでした。コメントがうっとうしいんですが、右下の吹き出しボタンを押すとコメントが消えます。






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「源氏物語」は源頼朝・源義経の物語ではありません

マジ?と思った話。

「源氏なのに義経が出てこない」の苦情受け…源氏物語ミュージアムで企画展 - 産経WEST

以前当ブログでも取り上げたことのある「源氏物語ミュージアム」の話です。同博物館を訪れる人から「『源氏』なのに頼朝も義経も出てこない」との意見が出ることもあるそうで、今回、源平合戦に関する展示を行うに至ったとの由。

いや、そんな意見無視していいと思うんだけど。源氏物語は高貴な生まれのイケメン、光源氏の話です。雅やかな王朝恋愛譚。一方、源平合戦は平家物語に代表される雄々しき軍記物語。源頼朝や源義経はこっちの人物。背景が全然違います。

おしゃれなフランス恋愛映画と、厭戦感漂うベトナム戦争ドキュメンタリー映画の豪華二本立て!なんて上映しても、お客さんが入らないですよね。客層が全然違う。

フランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの博物館で、シルベスター・スタローンの映画『ランボー』が上映されていたら笑いますよね。戦場帰りのマッチョな詩人がどこかに籠城して詩を書きまくるとか(笑)。今回の話、それぐらい違和感があります。どっちが優れているという話をしているわけではありません。古典に疎い人を勘違いさせてしまうんじゃないか。どうせだったら、往年のアイドル「光GENJI」のローラースケートを展示してみるのもいいかも。しゃかりきコロンブス。

さすがにそれは冗談としても、ひょっとしたら、マニアックなファンをおびき寄せるために、あえてミスリーディングなことをしているとか?それなら完全に相手の術策にはまってます、私(笑)。「源平盛衰記図会」なんかは一度見てみたいし。

受験生はちゃんと覚えておいて下さいね。「源氏物語」は源頼朝や源義経の物語ではありません。彼らが登場するのは「平家物語」です。




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大山鳴動鼠一匹

私は見たことがないんですが、『コレリ大尉のマンドリン』という映画がありますよね。ニコラス・ケイジ主演の映画です。

この映画のタイトルを、『コレラ大佐のバイオリン』と間違えている人をネット上で見かけたことがありますが、微妙に違うというか、かなり違うというか、全然違うというか。一つの要素も合ってません。

先日息子が聞いてきました。

「ねぇねぇ、『名山扇動して鶏一匹』っていうことわざがあるやんか。」

「???」

「前ぶれだけが大きくて結果が小さいこと、やったと思うねんけど……。」

「それを言うなら『大山(泰山)鳴動して鼠一匹』や!名山じゃなくて大山(泰山)。扇動じゃなくて鳴動。鶏じゃなくて鼠やで。しかも鶏やったら「一羽」になるはずやろ。鼠だから「一匹」になるよ。大きい山がゴゴゴゴッと音を立てていたのに結局は鼠が一匹チョロリと現れるイメージ。」

「そうそう、それそれ!」

……って、大丈夫なんかいな。「コレラ大佐」を笑えません(笑)。




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受験直前期からのご入塾について

おっと、気がつけばもう11月。日曜日も年内に仕上げねばならない仕事に追われて、あっという間に真夜中です。

宮田国語塾の方の話ですが、この時期になると、駆け込み的なご入塾のご相談をよく承ります。まことに申し訳ございませんが、受験直前期からのご入塾は原則としてお受け致しておりません。

入試本番までの残されたわずかな期間の中で、できることは限られていますし、私の方も、現在通塾されている生徒さんのフォローで精一杯であることがその理由です。

この時期、生徒さんが受験する学校の入試問題を分析したり、過去問トレーニングの準備をしたりする必要があるんですが、教務スタッフが私一人であることに加え、一人一人に合わせて授業内容を調整してゆくため、時間的な余裕がほとんどありません。そもそも、空席がないため物理的にお受けできないという事情もありますが……。

せっかく当宮田国語塾にご興味をお持ち頂いているのに、まことに申し訳なく存じております。毎日お断りばかりしていて心苦しい限りなんですが、ご理解下されば幸いです。

なお、2016年度の宮田国語塾塾生募集の詳細については未定です。空席がいつ・どれだけ用意できるかが決定すれば、ウェブサイトでもお知らせしたいと存じますが、まだ少し時間がかかりそうです。申し訳ございません。




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『私が愛する日本人へ ドナルド・キーン 文豪との70年』を見て

先日見たTV番組の話。

私の生活の中にTVは存在しないんですが、ごく稀に、どうしても見たいと思わせられる番組があります。最近NHKで放映された『私が愛する日本人へ ~ ドナルド・キーン 文豪との70年』はその一つ。

NHKスペシャル | 私が愛する日本人へ~ドナルド・キーン 文豪との70年~
(予告編が見られます)

ドナルド・キーン先生にその生涯を振り返っていただきながら、先生の証言をもとに作られたドラマを織り交ぜるという構成の番組なんですが、素晴らしかった。キーン先生への尊敬の念と感謝の念をいっそう深めました。

ドナルド・キーン先生については前にもブログ記事を書いたので、ご興味をお持ちの方はそちらをご覧頂きましょう。

ドナルド・キーン先生のこと:国語塾・宮田塾のブログ

司馬遼太郎・司馬史観・なつかしい人:国語塾・宮田塾のブログ

今回の番組で深く感じ入ったのは、キーン先生が「日本文学は間違いなく世界文学の一つである。私はそのことを世界に伝えようと歩んできた」とおっしゃるところ。

万葉集のような詩歌、源氏物語のような物語、枕草子のような随筆、そして日記文学。いや、古典だけではなく、現代文学も。いずれもハイレベルな文学であって、世界の文学の一つである。私も心からそう思いますけれども、世界の趨勢はそうではなかった。

ドラマの中では、終戦間もない頃のオックスフォード大学で研究をしていたキーン先生が、他の研究者に本(多分古今集だった)を取り上げられ、投げ捨てられるシーンがありました。

「日本なんて中国のイミテーションだろ!オリジナリティーのかけらもない国だ!そんな猿まね国家の研究なんてやめちまえ!」

私は日本人ですから、「それは日本人に対するあり得ない蔑視だ、これだけの文学作品を読み解けないお前のセンスが鈍いだけだ」と反論したいですし、せねばなりません。しかしキーン先生はアメリカ人。極東の小国を下に見る雰囲気の中で研究を続ける義理はなかったはず。それにもかかわらず今に至るまで日本文学と共に歩んで下さっている。

司馬遼太郎とキーン先生のお言葉を借りるならば、私にとってキーン先生は正に「なつかしい人」心から惹かれる方です。

番組最後、キーン先生が今の日本人へのメッセージを求められておっしゃった内容は、概要次の通り。

「今の日本は、伝統を求めようとする意識が弱いように思う。これは日本人の弱点。伝統はいっとき隠れることがあっても、消えることなく必ず流れ続けている。古いことを勉強し、知り、愉しむことが大切だ。」

私も本当にそう思います。キーン先生のような方が、そうおっしゃって下さるのは心強い限りです。

先の記事でもご紹介しましたが、キーン先生の現在の国籍は「日本」。日本の国難ともいえる東日本大震災の時に日本国籍を取得なさった。

この番組を見て思ったんですが、ドナルド・キーンという人は、もしかしたから本当は日本人として生まれる運命だったのではないか。それが天の悪戯でアメリカ人として生まれてしまう。しかしその本質は、日本の美意識や文学を愛してやまぬ人。その高い知性をもって「日本文学の伝道師」となるが、高齢になってから、ようやく日本の国に「お戻りになった」のではないか。

キーン先生がいつまでもご活躍なさることを、心から願っています。




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堀口大學『訳詩集 月下の一群』

前記事『3月のライオン』で詩情の話を書きましたが、そのつながりで。これもAmazonから同時に到着しました。岩波文庫の版です。

2015101102.jpg

私、この訳詩集は高校生時代に読んだものだとすっかり思い込んでいたんですが、未読でした。あれれ?

1.昔から堀口大學の訳でランボーやヴェルレーヌなどフランス象徴派詩に慣れ親しんできた

2.文学史の知識として「堀口大學『月下の一群』」と覚え込んでいた

3.上田敏の訳詩集『海潮音』は高校生の頃からよく読んできた

その結果、『月下の一群』は何度か読んできた、という風に思い込んでいたんでしょうね。パラパラ読んでみましたが、やっぱり日本語が上手いなあ。少し古いフランス詩の日本語訳に気軽に触れたいなら、堀口大學の訳が一番いいと思います。上田敏だと訳自体が古文になってくるので……。

仕事ではよく詩(和歌や俳句を含む)を扱いますけれど、普段の生活で詩集をよく読むかというとそうでもありません。というか、詩や詩情って普段の生活に溢れていると思うんですよね。私はバイク好きですが、バイクに乗って見知らぬ山道や海辺の道を駆け抜けるのは、「詩」そのものだと思っています。いや、本当に(笑)。

普段の生活のなかで、詩集や和歌集を読むのもそれはそれで楽しいことです。バイクでどこか海辺の町のカフェに出かけて、『月下の一群』を読めば楽しそう、というか、確実に楽しいんですが、なんかちょっと中二病が入ってますよね。

「あの人、バイクを駐めて入ってきたと思ったら、ブラック珈琲を頼んだよ。」
「うわっ、海を眺めながら詩集を読んでる!」
「わっ、ちょっと涙ぐんでるやん!」
「きんもーっ☆」
みたいな。自分でも笑ってしまうわ、確実に(笑)。

また家でゆっくり読んでみたいと思います。





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中学入試対策模試の国語問題に思うこと

各大手塾さんが中学入試対策模試を毎月のように実施していますが、生徒さんや保護者様から依頼を受けて、それらの問題や各自の答案を分析・指導することがよくあります。そんな事情で、関西大手塾さんの模試問題や解答のほとんどに目を通しているんですが、その上で思うことを少々。

ちょっと書きにくいんですが、別に利害関係はないので、はっきり書きます。各塾の模試国語問題は本当に粗い問題が多い。実際に出題された入試問題(特によく練られた難関中の入試問題)とは、かなりの差が、いや、雲泥の差があります。

教える側からすると、「場当たり的な」問題、つまり、実際の入試に向けての思考力や解答力の養成につながらない問題が多く、教えるべき内容に乏しいところがあるわけです。

いや、別に大手塾さんや問題作成者をけなそうというわけではありません。どの講師の方々も、指導や雑務でメチャクチャにお忙しいはず(私もよく分かります)。良問を作成しようとすれば、莫大な時間と労力が掛かりますが、忙しい講師の方々が、そこまでの時間的コストを掛けることは構造的に不可能でしょう。いきおい、模試の問題は粗いものにならざるを得ない。

特に国語の場合、良問を作成しようとすれば、知識面の問題は別論、論壇や文壇に目を配って出題文章を選択し、選んだ文章の論理構造や感情表現の機微を考えた上で、問題を作成せねばなりませんし、(ここはちょっとグレーな運用かもしれませんが、厳密には)著作権にも気を配らねばなりません。

ただでさえ多忙な講師が、そんな問題を毎週・毎月作成するなんて、まず不可能でしょう。つまり、問題の質が芳しくないのは、必ずしも講師や指導の質が低いというわけではなく、「構造的な問題」であると捉えています。

ただ、まじめな受験生はその模試を一生懸命に受け、真剣に復習しようとするわけです。そして、おかしな問題や解答にずっと頭をひねり続ける。受験生が真剣であればあるほど、悩みは深くなります。だって、間違っている模範解答を、いくら真剣に考えてみても納得できるはずはないんですから。

国語であれ、他教科であれ、一番大切なのは、自分の頭で真剣に考えて解答を導くという姿勢だと思いますが、上記のような問題が、その姿勢を崩してしまわないかが心配になってしまいます。「国語なんてやっぱりフィーリングや!勘や!真剣に勉強したって無駄や!」という風に。

大手塾に所属する問題作成者以外の講師さんからすると、この問題は無視していいよとか、この解答はよくないからこう書き直しましょう、とは言いにくい・言えないはずで、(言葉は悪いですが)無価値または有害な模試問題から生徒さんを「守る」のも、私の一つの仕事だと考えています。



具体例を挙げてみましょう。もちろん実際の問題を持ってくるわけにはいかないので、当方で作った具体例です。

お腹がペコペコのあなたはある部屋にいます。目の前に「A」「B」という二つの食べ物が置いてあるとして下さい。「A」は毒入りの食べ物。「B」は普通の食べ物です。もちろん、「A」を食べる訳にはいきません。「B」を食べるしかありませんね。

ここで問題。

「A」は食べられません。理由を書きなさい。


解答は(言うまでもありませんが)、

「A」には毒が入っているから。


となるはずですよね。

しかし、模試の解答を見ると、

「B」を食べるしかないから。


というような解答が書いてあります。

上記の事例は、

「A」には毒が入っている
↓ だから
「A」は食べられない
↓ その結果
「B」を食べるしかない

という構造です。言い換えれば、「Bを食べるしかない」というのは、「Aを食べられない」ことの帰結・結果であり、「理由」にはならない。

他の例も出してみましょう。

上空を低気圧が覆っている
↓ だから
もうすぐ雨が降る
↓ その結果
傘を持って出かける

「傘を持って出かけた」から「もうすぐ雨が降る」なんて言ったら笑われますよね。それは理由と帰結を取り違えているからです。

もちろん、上記は単純な設例を使ったたとえです。実際の模試ではもっと難しい文章になっていますから、こんなに簡単ではありません。ただ、理屈・論理の上では同じような解答が時々見られます。そうした解答は、実際の入試では「論理的な誤り」、つまり、「文章が正確に読めていない故の誤り」として、部分点すらもらえないでしょう。

受験生には、そうした問題をうまく回避してもらえればと思っています。




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「集団的自衛権」と「勉強の必要性」

先日、世論を二分した法案が可決されました。普通の憲法観からすれば合憲であるとは言いがたい内容です。是非・価値判断は別として、法解釈学からすれば、集団的自衛権はどう頑張っても日本国憲法からは導き出しえない。

憲法学の著名な先生方がこぞってその違憲性を主張し、内閣法制局長官OB(いわゆる「体制側解釈」のトップだった人)までもがその違憲性を明言していました。そりゃそうでしょう。「解釈」の範囲を大きく逸脱しているんですから。

私は集団的自衛権の是非を言いたいのではありません。それは各人の政治的見解の話であり、塾ブログの扱うべき範疇の外です。

私の言いたいのは「解釈」のずさんさ・無神経さです。当たり前ですが、法解釈も文章読解・解釈の一つ。「文章の中に書かれていないこと」や「文章の内容に矛盾すること」を文章から読み取ってはなりません。もし上記のような事柄を「読み取る」ならば、それは「解釈」ではなく「改変」「歪曲」です。



センター試験であれ、中学入試であれ、塾の生徒にはしつこく言っています。「文章中に書いていないことは書いていない。勝手に自分で付け足したり、内容を変えてはいけない。」

理屈の上から言えば、上記のことさえ徹底できれば、記号選択問題は満点のはずなんです。極論すれば、記号選択問題は「文章中に書いてあったか・書いていなかったか」を判定するだけですから。

模試や入試なら、個人の問題です。しかし、今回のむりやりな憲法「解釈」は全国民レベルの問題です。直ちに生活の何かが変化するというわけではありませんが、長い目で見たとき、じわじわと変化は押し寄せてくるでしょう。

私とて日本国憲法を「不磨の大典」なんて思っているわけではありません。硬性憲法(改正に厳格な手順を要する憲法のことです)の求める手順に従うならば、憲法改正があっても全く構わない。

しかし、国の最高法規の解釈をいとも簡単に間違ってしまう人びと、または意図的に間違って平然としている人びとの無神経さには、驚きを禁じ得ません。入試の世界で言えば、「選択問題全落とし」というようなレベルですから。



書いているうちに少し長くなってしまいました。私が時の与党の憲法解釈を云々してもべつに何も変わりませんよね(笑)。

塾を運営する者として言いたいことは次の通りです。

悪いことは言いません。あなたが子ども・学生なら、頑張って勉強して下さい。あなたが子を持つ親なら、子どもを勉強するように仕向けて下さい。そして、選択肢を幅広く持てるように。

公の場で詳しい理由を述べることは不適切でしょうから、(もどかしい気がしつつ)言及しないでおきます。ただ、この日本で生きていこうとする限り、勉強することの重要性は飛躍的に高まったのだと思います。

「集団的自衛権」と「勉強の必要性」の関係は、今すぐ問題になる話ではありません。しかし、あと10〜20年も経てばリアルな問題になってくる可能性があります。勉強しつつ・させつつその時に備える、それが私達にできる唯一の方法でしょう。



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「金は時なり」

お盆休みを頂いております。今が好機と、あれこれとやらねばならない事をこなしているんですが、やっぱりいつもの如く時間が足りない。正確には、やらねばならない事・やりたい事が多すぎるんでしょうね。どこかで妥協しないと。

さて、「時は金なり」という諺がありますが、これ、私には違和感たっぷりの諺です。

この諺の背後は、「金こそが最も貴重なもの」という価値判断があると思うんですよね。「金」という最も貴重なものを比喩の対象に挙げれば(いわゆる隠喩ですね)、「時」というものの貴重性がはっきり伝わるだろう、という考えです。

でも、諺の背後にあるその価値判断自体がおかしいと思うんですよね、私は。

考えてもみて下さい。人生はどんなに長くったって百年前後。先端医療技術で少しは伸ばすこともできるかもしれないけれど、極めて短い時間しか私達には与えられていません。あなたが何歳かは存じ上げませんが、この記事を読んで下さっているということは、一定以上の年齢でいらっしゃるはず。となれば、余命は長くて数十年。いや、不慮の死が訪れることもありえます。となれば、余命数年、場合によっては数ヶ月かもしれない。

「金」は何とかなります。健康なら頑張って稼げばいい。どうしても稼げなかったら、借りることもできる、行政に頼ることもできる。最悪、人の所有する金を奪うこともできる(いや、絶対にしないですけどね)。

でも「時」は稼ぐことも、借りることも、奪うこともできません。自分に与えられた一生という時間は、故意に短くすることは可能であっても、伸ばすことはできない。

であってみれば、「金」の貴重性なんて、「時」の貴重性とは比べものになりません。

実際、亡くなる間際の大富豪に「全財産と寿命10年を交換してあげてもいいけど、どうする?」と問えば、ほとんどの大富豪がこの取引に乗ると思うんですよね。私が神(悪魔?)なら、そんな取引を持ちかけて、世界中の困窮している人たちに金銀財宝をばらまきたいんですが(笑)。



私も、幼い頃からそう思ってきたわけではありません。うすうす頭で感じていた「時」というものの貴重性。それが身体的な感覚で胸に迫るようになってきたのは、三十代の頃でしょうか。私は三十代で父を失うととともに、子を持ちましたが、そのことが大きく影響していることは間違いないと思います。

そんなわけで、個人的には「時は金なり」という諺を使うことはもうありません。強いて言うなら「金は時なり」でしょうかね。




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夏休みの小学生にお薦めする小説 - 松浦寿輝『川の光』

今日はちょっとメモ的に。

夏休みの小学生に何か小説を読ませたいんだけど、というご相談を受けることが時々あります。

私がお薦めするのは、松浦寿輝『川の光』

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小学高学年なら読みこなせる小説ですが、大人にも十分お薦めできる、否、大人こそ楽しめる小説ではなかろうかとも思います。

国語教師、中学受験指導者、一児の父親、小説好き。いずれの立場からも心からお薦めできるという珍しい小説です。

詳しい紹介はまたの機会にと思いつつ、時間が無いのでずっとほったらかしになっているんですが、夏休みということでとりあえずタイトルだけでもご紹介しておこうと考えた次第。

親子のつながり、友情、家族、勇気、自然への愛、冒険、成長。読者が小学生であれば、登場動物たちに、上記のような人生の大事を教えられるでしょう。読者が大人なら、登場動物たちが(そして筆者の巧みな文章が)それらを心の奥から呼び覚ましてくれるはず。

小学生時代に学校で読まされた動物文学は、ステレオタイプ的に動物を捉えていて、すごく退屈だったんですが、最近、アンナ・シュウエルの『黒馬物語』を読んで、動物文学というのもなかなか魅力的だなと思うようになりました。

この『川の光』を動物文学と呼んでよいのか迷いますが、もしそれを肯定するなら、動物文学の白眉だといってよい作品でしょう。

ちなみに、『川の光』には、『川の光 外伝』『川の光2 - タミーを救え! 』という続編があります。これまた素晴らしい。『川の光』を読めば、ほぼ間違い無く外伝もパート2も読みたくなると思います。

ちゃんとした紹介記事は、また時間のあるときにでも。

<追記>
振り返ってみると、ちょこちょことは『川の光』について書いていました。

スタインベック・綿矢りさ・車谷長吉・三浦しをん・松浦寿輝・三島邦弘:国語塾・宮田塾のブログ

物と魂:国語塾・宮田塾のブログ

年末年始の読書:国語塾・宮田塾のブログ





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桃太郎ペプシCM - 物語に求められるもの

いささか旧聞に属しますが、ペプシCM「桃太郎」のキジ編が来てますね。

桃太郎 エピソード3 キジ編


昔話「桃太郎」を知らない人はいませんが、あの話、よく考えてみると、かなりおかしな点があります。

確かに鬼も悪辣な行為をして蓄財したのかもしれないんですが、とりあえず今のところは平衡状態にあるわけです。その状態を、成長した桃太郎が暴力をもってひっくり返す。桃太郎も爺さん婆さんも直接鬼の被害にあったわけではなさそうなのに、鬼に対し暴虐悪逆の限りを尽くす。ひょっとしたら、桃太郎は鬼の子供も含め鬼一族を殲滅したのかも……。

昔話というのは子供にも理解できるよう平板な内容になっていることが多いので、深読みする意味はないのかもしれません。しかし、桃太郎がかなり好戦的であることに違いはないでしょう。対価(きびだんご)を支払って本格的に兵力(サル・イヌ・キジ)まで徴発しているわけですし。

で、このペプシの映像広告なんですが、桃太郎が、そして桃太郎と行動を共にする者たちが、なぜに闘いに赴くのかが納得できる内容になっています。しかも映画レベルのクオリティなので、説得力がありますよね。己の存立基盤を賭けた闘いの行方やいかに。

もちろん、ストーリーとして、桃太郎達が勝って鬼が負けるのは当然です。しかし、そこに至る必然性と説得力、それこそが物語に求められるものです。このペプシの広告には、短時間で必然性を悟らせる説得力があって素晴らしいと思います。

主題歌 The Heavy 「Same ol'」、個人的にはもう完全に「桃太郎の曲」になってしまいました(笑)。

次のエピソードが楽しみです。

桃太郎 エピソード0〜2




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ロベルト・コトロネーオ『ショパン 炎のバラード』(Presto Con Fuoco)

ロベルト・コトロネーオ(Roberto Cotroneo)の『ショパン 炎のバラード』(原題:Presto Con Fuoco) について。

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この本、購入したのはずいぶん前。発売直後でした。今調べてみると、2010年に発売ですから、もう5年近く前の話ですね。

ゆっくり本を読む時間がなかなか取れない生活をしているので、裁断・スキャンした後でiPhoneやiPadを用いて読む、または、裁断後の書籍を風呂場で読むというのが主な読書方法になっています。

で、この『Presto Con Fuoco』、表紙が美しいんですよね。私はショパンの大ファンなので、伝記等をあれやこれやと読んできましたが、こんなにショパンを体現した表紙も珍しい。知的で繊細で雄々しくてすっきりしていて。

ショパンのファンなら、この肖像画を描いた画家もすぐに分かりますよね。そう、ショパンの友人、ウジェーヌ・ドラクロワです。しかも、ショパンの絶筆がうっすらと見えるデザインとあっては、なかなか裁断する気になれず、今まで書架の肥やしとなってしまっていたのでした。

結局、古本をもう一度買い求め、裁断した上でiPadで読んだり、入浴時に読んだりしたのがつい先頃の話。どんな新本でも平気で裁断する私には珍しいパターンの行動です。

何と言いますか、好きな人にとってはとにかく扇情的な文句が帯に踊っています。かのウンベルト・エーコが激賞したとか、ショパンには知られざるバラード4番の未発表楽譜があるとか。もうこれだけで、ショパン好きなら絶対に読もうと思いますよ。

極めつけは、こんな推薦文。

ショパンのバラードの第四番は天下の名曲だが、この本はそれをめぐって、磨ぎすまされた推理と秘められた情熱が織りなす物語である。これに肩を並べるものといえば、私にはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』かミケランジェリのピアノ独奏ぐらいしか思い当たらない。


誰が書かれたと思います?実は吉田秀和氏なのです。ああ、もうこれは読まないとしようがない(笑)。



で、感想。全体的な観点から申し上げますと、ちょっと肩すかしの感が否めない小説でした。というか、私の期待が大きすぎたという方が正確なんでしょうね……。面白かったか否かと問われれば、極めて面白かったと断言できますが、バラード4番の知られざる最終部分が(楽理に無知な私には)聞こえてこないのが少し寂しい。

「小説」だから「聞こえない」のは当たり前ですが、ショパンの絶筆となった直筆楽譜を手にした老ピアニストに、何か劇的な変化があっても良かったのではないかと思ってしまいます。ベタな展開ですけどね。でも、ショパンのバラードにまつわる物語なんだから、ドラマティック過ぎるぐらいにドラマティックでもいいんじゃないか。

むしろ、友人の直筆楽譜蒐集家の方が、世界を揺るがす直筆楽譜にガクガクブルブルしていて共感を覚えてしまいました。多分、私のようなベタな展開を求める読者のために蒐集家というキャラクターが用意されているんでしょうね。



順序が逆になりましたが、あらすじをば。

ショパンのバラード第四番には知られざる遺稿があった。その遺稿楽譜には、現在知られているフィナーレ部分とは異なるフィナーレが記されている。亡くなる間際の衰弱しきったショパンが書いたと思しきそのフィナーレの楽想記号は、「Presto Con Fuoco (情熱の炎をこめて迅速に)」。しかもその楽譜は、愛人の娘ソランジュに捧げられていた……。

楽譜はナチス統治下ベルリン→スターリン支配下モスクワ→サンティアゴと流れてゆき、亡命ロシア人の手によって、パリに住まう極めて高名な老ピアニストへと渡る。ピアニストが読み解く楽譜に秘められた驚異……。

って、書いているだけでワクワクするストーリーです。でも、文章にはかなり癖があり、読み解くには少々骨が折れます。原文がそうなんでしょうが、やや衒学的なきらいがあると申しますか。楽譜を手にするピアニストの主観を巡り続ける構成は、音楽好き・ショパン好きでないとかなり辛いところがあるかも知れません。

ただ、あなたがショパンのファンというなら、エピソードを拾い読みするだけでも、とても面白いはず。

まず老ピアニストはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリという設定。私は、読んでいる間中ずっと、あの気むずかしいミケランジェリの顔を思い浮かべていました。多分、作者もそれを期待しているんだと思います。

ピアニスト関連のエピソードをいくつか引用してみましょう。本当か嘘かは知りませんが、とてもリアルで興味をそそられます。

まず、アシュケナージ。うん、若い頃の彼って、カモシカみたいに走りそうな感じがする(笑)。

先日、ここから遠くないところで、ウラディミール・アシュケナージに会った。彼のことはよく知らない。(中略) 銀色の長い髪をなびかせながら、微笑みを浮かべて、私のほうへ走ってきたので、恐ろしくなって、私は針鼠のように後退ってしまった。


ホロヴィッツ。結構ボロクソ。

ホロヴィッツの弾き方が上手でない、とわかったから。あまりにも速すぎる。彼の技法の卓抜さ、極限のヴィルトゥオーゾは、私を苛立たせた。いくつかのパッセージでは、正確さの欠如が、気になった。時間が足りないかのようにして終った。


グレン・グールド。私が(というより世界が)最も愛するピアニスト。

録音をしながら、小声で歌いつづけるグールドのことを、私は思い出していた。彼のレコードのなかでは、バッハの音符の下に、彼の声が聞こえてくる。そして誰もが、彼を奇人のように思いこんだが、そこに自分がいないことの物狂おしい恐怖を、誰もが理解しなかったからだ。(中略) 聴く者に対して、彼が存在していたことを、彼がそこにいたことを、その音楽がグレン・グールドと呼ばれる人物から出てきたことを、(中略) レコード盤のなかにいることを思い出させるための、それは、ひとつの方法だったのである。


ファンの方はよくご存知でしょうが、グールドの録音を聴いていると、ピアノの音に混じって彼のハミングが聞こえてくることがあります。「ン〜ン〜ン〜」「フンフフ〜ン」みたいな感じ。録音エンジニアにいくら注意されても止めなかったらしい。

私はその声が死ぬほど大好きです。というか、それが聴きたくてボリュームを上げてしまう。バッハを演奏して思わず口ずさむのがいけないなんて誰が決めた、演奏者は大いに歌え。そんなことを実行するのは、後にも先にもグールドだけですが、コトロネーオの上記解釈は正しいと思います。

最後にミケランジェリ(らしきピアニスト)がショパンについて語る一節から引用したいと思います。そうなんだ、そうなんだ、正にそうなんだ。私もそれが言いたかった!

筆者コトロネーオは音楽教育を受けた人で、ピアノも巧みらしい。音楽に対する理解力が、私とは比べものにならないぐらい高い人だと思いますが、その人が(おそらくは自分の意見として)こう書いてくれているのはとても感動的です。

こうして私が出会う婦人たちは、たとえば、ワーグナーのすべてを知っているというふりをしたり、いかにも慇懃に私に尋ねたりするのであった。どのようにして私が、ほとんど生涯をかけて、フレデリック・ショパンのような作曲家の、演奏やら、解読に、没頭したのか。あの気障な、ロマン主義の、マイナーな作曲家は、一生のうちに交響曲の一作も、オペラの作品一つも、書きあげなかったのに、と。それゆえ私は、黙って、相手の目を見つめ返し、答えるべき言葉を失うのである。そして心のなかで、繰り返すのであった。あなたは、考えたことがあるのか、この世に神が存在するかどうかを。もしも存在したならば、ひとつの音だけでも、出したことがあるだろうか。この愚かなる人びとの住む、宇宙のなかで、見分けるのが困難な、単なる叫び声とはちがう、ひとつの音を。


この部分を読むだけでも価値あり。

誰にでもお薦めの小説というわけではありませんが、ショパンまたはミケランジェリのファンなら、読んでおいて損のない作品です。




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妙な文章を見つけるととても嬉しい

入試国語の答案を作る際、それほど語感にこだわる必要はありません。もちろん、気を配るに越したことはありませんが、合否に関わるような問題ではないと言えます。

したがって、生徒を指導する際は、あまり細かい点にこだわらず、「解答要素」が備わっているか否かを中心に見ています。



しかし、私生活では仕事柄か、どうしても言葉にこだわってしまいます。特に印刷物になった言葉には目を光らせてしまいます。そして、妙な文章を見つけるととても嬉しくなってしまいます。性格が悪い?うん、そうかもしれない(笑)。

というのも、「なぜその文章が気持ち悪く感じられるのか」とか「どうすればよりよい文章になるのか」といったことを考えるのが楽しいんですよね。

例えば、ついさっき見つけた毎日新聞2015年6月5日深夜付けの記事。サミットの開催地が伊勢志摩に決まったということを伝える記事なんですが、こう記されています。

毎年、政府関係者や皇族が参拝する伊勢神宮を抱える三重県警は「要人警護の経験に慣れている」(警視庁関係者)とも評価されていた。

伊勢志摩サミット:警備優位性が決め手…当初から最有力 - 毎日新聞より引用


みなさんは違和感を覚えませんか?私は覚えます。「経験に慣れる」という表現は、どうも落ち着きが悪いように思えるんですよね。

その原因は「経験」という語の語感にあると思われます。「経験」という単語自体が、「知識や技術を身につける」というニュアンスを持っている以上、「慣れ」という感覚も包含していると思うんですよね。つまり、上記文章には重複感が生まれてしまっている。

私が記者なら、「要人警護に慣れている」または「要人警護の経験が豊富だ」とします。



校閲の入る新聞記事ですらそんな感じですから、一作家のものす文章には、とてつもなく奇妙な表現が混じっていることがあります。(私も大きなことは言えませんが、文章を読んでもらってお金を頂いている訳ではないので、大目に見て下さいね(笑)。)

私がかなりの悪文家だと思うのは、最近まで芥川賞の選考委員を務めていた作家です。NOと言える作家さんですね。

彼は政治家もしているわけですが、その割に(だからこそ?)言葉に鈍感な雰囲気があります。一番驚いたのは彼の記者会見での言葉。

○○党は体たらくだ!

うむむ?意味が分からない。「体たらく」ということばは、「好ましくない状態」を指す言葉ですが、現代語ではまず例外なく修飾語をともなう語です。「散々の体たらくだ」「今年の抱負はどこへやら、もうこの体たらくだ」というように使うわけです。

仮にも作家、裸でこの語を使うなんて何かの間違いだろうと、裏をとってみると、どの記事にも「○○党は体たらくだ!」と記されていました。しかも会見中激高して何回もこの表現を使っていた模様。

恥をかかないように誰か注意してやれよと思うんですが、お山の大将になっていて、誰も進言できないんでしょうかね。もうこの御仁は政治家としても期限切れだなと確信した次第。この記事をご覧の政治家のみなさんは、「○○党は散々の体たらくだ」と言うようにしましょうね(笑)。



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スフィアン・スティーブンス『キャリー・アンド・ローウェル』


仕事が忙しく、新しい音楽や文学や映画に触れる時間がなかなか取れないのが悩みです。

新しいことも勉強したいし、息子の勉強も見てやりたいし、妻とゆっくりカフェで過ごしたいし、ふらっとどこかに一人で出かけたいし……って、全部を望むのは贅沢すぎますが、「生命の燃焼を感じさせる作品」に触れるぐらいは許されてもいいかと。



最近、私が胸を打たれたのは、2015年3月末に発表された、Sufjan Stevens (スフィアン・スティーブンス)の最新作。『Carrie & Lowell』(キャリー・アンド・ローウェル)と題されたこのアルバム、血がドクドクと流れ出ています。心の傷から。血が「流れている」のではなく、血が「流れ出している」のです。とめどなく。

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悲しみという一語では表し得ない大きく複雑な感情。歌うスフィアンも、リスナーも、その感情に巻き込まれ、翻弄されるばかりです。しかし、翻弄されることが、魂の浄化につながっている。

大げさなことを言うと思われるかも知れませんね。作品の背景を紹介しましょう。

スフィアンは1975年生まれの米国人フォークシンガー。恥ずかしながら、この作品を聴くまで、私は彼のことを知りませんでした。

スフィアンには母親(キャリー)がいましたが、彼の幼い頃に統合失調症を病み、彼を置き去りにして失踪してしまいます。海外のレビュー記事を見ると、彼が1歳の頃からそうした失踪が繰り返されたようで、このアルバム内にも、"when I was three, three maybe four, she left us at that video store." (僕が3歳だった頃、いや4歳の頃だったか、母は僕たちをビデオストアに置き去りにしていった) という歌詞があります。

そんな生い立ちが彼の人生に影を落としていると思うんですが、母キャリーと再婚したローウェル(スフィアンにとっては継父ということになる)が人格者で、彼の人生に大きな希望や影響を与えたらしい。ローウェルは、今も彼の音楽活動をバックアップしている(彼のレーベルを運営している)とのことなので、スフィアンにとって、本当に心を許せる人なんでしょう。

実母キャリーは、薬物中毒・統合失調症から通常の生活を営むことは難しかったため、施設に収容されるなどして暮らしていたようですが、2012年、胃癌によって死の床につきます。この疎遠だった実母の死を、スフィアンは継父ローウェルと共に看取ります。その経験を主題とした詩と曲、それがこのアルバム『Carrie & Lowell』(キャリー・アンド・ローウェル)です。



近しい人を看取るということ。経験のある人にはお分かり頂けると思うんですが、それは筆舌に尽くしがたい体験です。今ともにあるこの大切な人が、そう遠くない日に、この世を去る。今、この命が燃え尽きようとしている。どれだけすがりついても、その流れを止めることはかなわない。

そして、喪失。喪失なんて軽い言葉では言い表され得ない、重苦しい感情。私は父を喪った後、自分の気持ちをどう表現すればよいのか分かりませんでした。表現する必要など無いではないかと思われるかもしれませんが、それは違います。何とかして言葉として落ち着けようという心中の試みを抑えることができない。片肺を喪って呼吸している感じ?何トンもの鉛を肺に注ぎ込まれた感覚?

言葉はどうでもいいんです。今になってみれば、言葉に表そうとする営為こそが、心を癒す過程であったのだと分かります。

インタビューを読んでみると、スフィアンは「これは芸術作品じゃないんだ、僕の人生なんだ」と述べています。私にはその言わんとする趣旨がよく分かります。

肉親の死という体験を「芸術」というようなフォーマット、言い換えれば人から評価を受けるような形式に置換したくない。といって、肉親の死を自分の心の中だけに止め置くことも難しい。だから、「音楽」として自分の思いを定着するけれど、それは、自分の「人生」の必要上からであって、決して他者の評価を求める営為ではない、ましてや「商業」では断じてない。

彼の言いたいことは、そういうことでしょう。間違い無く。



彼のレーベルが『Carrie & Lowell』全曲をYouTubeに発表しています。断片的な歌詞と共に何曲かをご紹介します。日本語訳(意訳)は私が付けたものです。

Sufjan Stevens, "Drawn To The Blood" (Official Audio)‬


I'm drawn to the blood
The flight of a one-winged dove
How? How did this happen?
How? How did this happen?

For my prayer has always been love
What did I do to deserve this?


僕は血に引き寄せられて。
まるで片翼の鳩が飛ぶように。
どうして?どうしてこんな事になったんだろう。
どうして?どうしてこんな事になったんだろう。

だって、僕の祈りはずっと愛に満ちていたはず。
こんな目に会うなんて考えも付かない。

Sufjan Stevens, "Fourth Of July" (Official Audio)


アルバム中盤の「7月4日」という名の曲。フォークというよりもアンビエントと言った方がいいかもしれない音。抑制された歌が、逆に深い感情を際立たせてゆきます。歌詞の喚起するイメージが素晴らしすぎる。上記の通り、彼は「芸術作品」でないと言いますが、私にとっては、文学・芸術以外の何物でもありません。

※不明な固有名詞などは、下記サイトを参考にしました。
Sufjan Stevens – Fourth of July Lyrics | Genius

亡くなってゆく母親が彼に話しかけます。
もちろん、それはスフィアンの想像・創造です。

"Well you do enough talk
My little hawk, why do you cry?
Tell me what did you learn from the Tillamook burn?
Or the Fourth of July?
We're all gonna die."


お前はよく喋るねえ。
どうして泣くの?
私の可愛い「鷹ちゃん」。

教えてちょうだいな。
ティラムークの火災から何を学んだの?
7月4日の花火から何を学んだの?
私達はみんないつかは死ぬのよ。

ティラムークとはオレゴン州の森で、大規模な森林火災があったことで有名だとのこと。7月4日がアメリカ合衆国の独立記念日であることは勿論知っていますが、なぜこの文脈で出てくるのか分かりませんでした。上記サイトで調べてみると、米国では7月4日には花火を打ち上げて祝うものらしい。

「森林火災」も「打ち上げ花火」も空を焦がすほどの明るさですが、その激しい発光のあとは、(今まで明るかっただけに)夜空の暗さが恐ろしいまでに感じられるはず。それは、生命を華々しく燃焼させた後に散り、漆黒の闇へと帰って行く人間という存在の比喩なのでしょう。空高く舞う「鷹」は、地上からの狭い視野ではなく、鳥瞰的に「死」を見つめます。

"Did you get enough love, my little dove
Why do you cry?
And I'm sorry I left, but it was for the best
Though it never felt right
My little Versailles."


存分に愛してもらったかい?
どうして泣くの?
私の可愛い「鳩ちゃん」。

お前を置いていってごめんね。
でも、それが最善の方法だったのよ。
正しいとは決して思わなかったけれど。
私の可愛い「ベルサイユちゃん」。

この連では、「鷹」ではなく「鳩」が現れます。鷹よりも小振りな鳩は、母親のそばにまとわりつく幼い子供のイメージでしょうか。スフィアンを見捨てたことに対する謝罪は、スフィアンが母から最も聞きたかった言葉でしょう。もちろん、それが本当だったとは思われませんが、彼はそうして自分の精神の均衡を保つのでしょう。誰がそれに文句を付けられる?

「ベルサイユ」はアメリカ人にとって「芸術性」の象徴なんでしょうか。幼い頃からスフィアンには芸術的なところがあって、それを正気に戻っていた母が「お前は芸術家さんだね、ベルサイユちゃんだね」なんて評したのかもしれません。想像の域を出ませんが……。大切な人を喪ったとき、他愛のないことの方が逆に大切な思い出として浮かび上がってくるものです。



繰り返しになりますが、『Carrie & Lowell』は、心の傷から血がドクドクと流れ出している作品です。ご興味をお持ちの方は、心して聞かれますよう。


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解答作成のスピードと学力


国語だけではなく勉強全般について言えることなんですが、「早とちり」タイプの生徒は学力が伸びにくい傾向があります。



何人かを同時に指導していて、一斉に問題をさせることがあります。もちろん私の方では、問題の難度や生徒の実力から、解答作成までの時間を具体的に見込んでいます。

私 (これだったら解答作成までだいたい5分ぐらいかかる問題だな、と思いつつ)「じゃあ、この問題をやってみよう。」

30秒後。

生徒A「できました!」

私「いやいや、そんなに早くはできないと思うよ。もう一度よく考えてみて。」

生徒A「いや、ちゃんと考えました。」

どれどれと解答を見せてもらうと、案の定まったく解答の体をなしていません。

私「さっき説明したけど、段落Aと段落Bを踏まえないと解答にはならないよ。もう一度書き直し。」

さらに30秒後。

生徒A「できました!」

見せてもらうと、やっぱり先程と大差ない解答です。

私「A君、スピードは大した問題じゃないよ。今A君に欠けているのは、ちゃんと考えて解答をつくること。時間は無視していいから、自分の作れる最高の解答を書いてみてよ。今の解答だと、段落Aにも段落Bにも全く触れられてないよね。次は『必ず』その2つの段落に触れるようにして書いてみて。A君だったら、もっといい解答が書けるはずだよ。」

生徒A「えぇ〜っ……。」

そうこうしている内に他の生徒が解答作成を完了。

生徒B「できました。」

私「どれどれ、うん、いい感じで書けているよ。あとは、主語の位置を変えておくと、もっと分かりやすくなるね。」(と改良案を提示する。)



経験上、「頭を使う問題・科目」の学力を伸ばす場合、ある程度時間の余裕をもって、時には制限時間を大幅に超えてでも、じっくり取り組んだ方が、効果は高いと言えます。

もちろん、無駄に時間が掛かりすぎるのは困りますし、知識問題(国語で言えば慣用句やことわざの意味など)は、知らないものをいくら考えても無駄ですから、さっさと教わるなり解答を見るなりすべきです。

しかし、「考えるべき問題を考える姿勢」は絶対に必要です。そもそも、私立中学や難関大学が入試で求めているのは、そういう力に他なりません。条件反射的にパパッと答えが出てくる問題(もちろんそういう問題もある)では、あまり差は付きません。

「早とちり」タイプの生徒は、そういう意味でかなりまずいです。一番早く解答を作成できるけれど、一番誤答率が高い、なんていうケースはよくあります。あまり考えずに「素早く解答する」ことだけに慣れるのは避けた方がいい。

「プリントを完成させて○を付けてもらえば帰宅できる」というタイプの指導に小さな頃から慣れている子なんかに、「早とちり」タイプの子が多いように感じます。

いつも保護者様には申し上げているんですが、解答作成に時間が掛かるのはいずれ解消されます。読解力や解答力が身に付けば、自ずとスピードが上がってくるからです。でも、その逆、スピードは速いけれど、あまり考えずに解答を作成してしまう、という姿勢はなかなか矯正できません。特に小さな頃に妙な成功体験があったりすると、「あまり考えない姿勢」の固着はなお強固になってしまいます。

全ての問題について言うわけではありませんが、「考えるべきところではしっかりと考える」。そういう姿勢や指導が、特に低学年の子供には必要性が高いと考えています。


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合格のご報告をいただきました


先日、以前通塾してくれていた生徒さんのお父様から、お電話を頂戴しました。夏の短い期間だけ通塾していた生徒さんです。

慶應義塾大学総合政策学部(SFC)に合格・進学されていたとの由。よかった!おめでとうございます。他にも国際基督教大学(ICU)にも合格されていたとのこと。

芸術方面にも才能がある生徒さんだったので、将来は個性的な活動で社会に貢献されることと思います。頑張って下さいね。




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「くだもの」「けだもの」「まつげ」日本語豆知識


たまには日本語豆知識をば。ずっと書くのを忘れていました(笑)。

「くだもの」という言葉がありますよね。どこから来ているかご存知でしょうか。

私が一番説得力のあると思う説をご紹介します。

 く+だ+もの = 木+の+物

詳説すると、

「木」が転じて「く」。母音交替が生じた。

「だ」はやや難しいですが、古代の助詞「つ」が転じたか、または、連体助詞「な」が転じたか。いずれにせよ、現在の格助詞「の」に該当する助詞です。

「もの」は現代語に同じ。

木になる物=くだものというわけです。どうでしょう?説得力があると思いませんか?

この説の良いところは、「けだもの」も同様に説明できるところです。

 け+だ+もの = 毛+の+物

獣(けだもの)って、毛に覆われてモフモフしてますよね。だから、「毛+の+物」というわけです。

このあたりまでは、各種の古語辞典や日本国語大辞典で追跡できるんですが、私が気になるのは、「だもの」の前に入るのが「カ行」の音であるというところです。

この方式で出来ている語、つまり、一音節の名詞+古い格助詞と思われる「だ」+「もの」という構成の単語は、私の調べる限りでは、上記2語だけのようです。

ちょっとマニアックですが、ひょっとしたら、古代の日本人には、「だ」という古い助詞(またはその亜型)は「カ行」の音節としか接続しない、などという言語感覚があったのかもしれません。このあたりは少し妄想が入っていますが……。

関連して書いておくと、奈良時代でさえかなり古臭いと考えられていたらしい「つ」という助詞は、現代語の「の」に該当しますが、用法がかなり固定的だったとされています。あらゆる語を結合させる現代語の「の」とは訳が違うわけです。だとすれば、上記の「だ」に関する考えは、意外に的を射ているのかも、なんて思うのは自惚れすぎでしょうか。

ついでに書いておきますと、「まつげ」という単語は、「くだもの」によく似た構成で出来上がったとされています。

 ま+つ+げ = 目+の+毛

「目」が転じて「ま」。母音交替が生じています。今でも「まなざし」とか「まなこ」とか「まのあたり」とか「まぶか」なんて形で生きていますよね。

古い助詞「つ」は、現代語の格助詞「の」に該当します。

「げ」は現代語に同じ。「毛」です。

要するに、「目の毛」という意味の古い表現が今も生き残っているわけです。

きゃりーぱみゅぱみゅのヒット曲に「つけまつける」という曲がありますが(付け睫毛をつける女の子の心情を描く曲 — 私も名曲だと思います)、この「つけま」の「ま」は古代から生き残っている語だと考えると、感慨深いものがあります。

って、どこまでも話が広がりそうなので、今日はここまで。



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竹内真『自転車少年記』


生徒さんが受験した模試の問題や答案を個別的に見て、質問に答えたりアドバイスしたりすることは、私の日常的な業務の一つ。その際に、興味深い出題文に出会うことがあります。役得の一つかもしれません。

竹内真『自転車少年記』はどこかの中学入試問題でも見かけたことがあり、興味を持っていたんですが、模試で再び見かけたので購入してみました。


自転車少年記自転車少年記
(2004/05/25)
竹内 真



読み始めると面白くて、一気に最後まで「走り」ました。自転車を軸とした小説なので、登場人物と一緒に「走っている」気分になる小説なんです。

典型的な「教養小説」、つまり、登場人物が自己を形成し成長してゆく物語なんですが、私はこの類型の小説が大好きです。仕事自体が、生徒の成長と大きく関係していますし、自分自身まだまだ成長せねばならない身分ですしね。帯には「爽快無類の成長小説」とありましたが、偽りなし。

教養小説と漫画 Part1:国語塾・宮田塾のブログ

教養小説と漫画 Part2:国語塾・宮田塾のブログ

中学入試頻出テーマ「少年少女の精神的成長」— Sigur Ros を介して:国語塾・宮田塾のブログ

主人公は昇平と草太の二人。はい、登場人物にマークを付けておこうね〜。いやいや、授業じゃないので気楽に読もう(笑)。

主人公の二人が4歳、幼稚園児の頃からストーリーは始まります。昇平が自転車の練習をしていて、極めて危険な失敗を犯すんですが、それが二人の最初の出会い。下り坂でコントロールを失った自転車が草太の家に突っ込むんですが、このシーンから既に二人の性格、したがって成長の道筋が暗示されています。

もちろん、読み始めたときには、そんなことは知る由もありません。でも、彼らが30歳手前になるまでの遍歴・成長を見届けてみると、出会いのシーンが必然性をもったものに思えてきます。入試や模試で出題されているのは、このシーンの近辺ですね。

やや無鉄砲なところがあるが社交性の高い昇平、穏やかな性格で努力を惜しまない沈思黙考型の草太はとてもいいコンビ。小説内だけではなく、こういう人物のコンビは安定性が高いと思います。勉強に向いているのは後者の草太だと思うんですが(実際、小説の中でも一心に勉強するシーンがある)、社会に出たとき、どちらがうまく世を渡ってゆくかはまた別論。それが人生の面白いところです。

大人の私からすると、大学生から社会人の頃の彼らも面白いんですが、仕事や異性関係の話が大きくなってくるので、小学生が読んで面白いのは前半部分じゃないかと思います。そのあたりを少しご紹介します。

小学生になった彼らは、特訓山での冒険を経て、海への冒険に出かけるんですが、このシーンが特に男心をくすぐります。

小学1年生の頃。二人は校則を破って自転車で校区外に出かけ、道に迷いながら必死で「特訓山」にたどり着きます。しかし、その「特訓山」も、小学4年生になった彼らにとっては、今や気軽に出かけられる場所となっています。

「ショーちゃん、今は特訓山を遠いとは思わないだろ?」
「当たり前だろ。あそこが遠いと思ったのなんて、一年の時だけだって」
「でもさ、もしも今でも特訓山に行ったことなかったら、やっぱり遠いって思う気がするんだ」
「……まあ、そうかもしんないけど」
「だからさ、もっとずっとずっと遠くに行ってみたら、そこも遠いとは思わなくなると思うんだ」
「海でもか?」
「海だってどこだって、自転車で行けるようになれば、きっと自分の縄張りみたいになると思うんだ。どんどん遠くに行けば、どんどん縄張りが広がってさ」
「縄張りかー!」
(中略)
「だからさ、思うんだ」
熱にうかされたような気分で、草太はさっきの言葉をもう一度繰り返した。
「自転車で、どこまで行けるか試してみたいって」

竹内真『自転車少年記』より引用


男の子の持つ冒険心が本当によくあらわれています。10km以上離れた海への冒険は、結局失敗に終わるんですが、その苦い味わいもまた「成長物語」らしくていい。人間は冒険したり失敗したりしないとね。

上記の小学生二人の気持ち、よくわかるんですよね。私がバイクに乗るのと同じ気持ちなんです。私も大人ですから、さすがに近隣の海ぐらいで「縄張り」が広がった感覚は持てませんが、「鹿児島までフラッとかき氷を食べに行く」とか、「青森の海をひょいと見にいく」なんていうのが好きなのは、どこか「縄張り拡大本能」と関係があるのかもしれません。いや、あんまり成長していないだけなのかな……(笑)。

自転車であれバイクであれ、「風」がポイントなんだと思います。この『自転車少年記』も、要所要所で「風」の描写が織り込まれます。「風」がないと、自力でたどり着いた感じがしないんですよね。電車、ダメ。飛行機、ダメ。自動車、ダメ。安楽すぎる乗り物は(移動手段としてなら別論)、楽しみがありません。自力で苦心してたどり着かない限り、「縄張り」が広がった感覚は持てないようです。

(ちなみに私の「縄張り」は本州・四国・九州の45都府県。北海道と沖縄だけはまだ自分のバイクで走ったことがありません。)

彼らのこの冒険感覚は、大人になっても続きます。大学生になった草太は、自転車で300km走破する「八海ラン」と称するイベントを立ち上げて成功に導くんですが、そのくだりがとても自然でいいんです。イベントまずありきではなく、楽しく(&苦しく)走る行為が自然に人の輪を広げてゆき、いつしか大きな大会になっている。理想的だと思いました。

最近の小説には珍しく、400ページ超なのに、小さめの活字で二段組みの体裁になっているのも私好み(字がギチギチに詰まっている本が大好きです)。それでいて、文章に勢いがあるのでスルスルと読めます。以前、恩田陸の『夜のピクニック』を妻からもらって読みましたが、よく似た読後感を覚えます。

上質な成長物語って、やっぱりいいなあ。




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最近の珍答


生徒の答案を見ていると、時々おもしろいものに出くわします。生徒に悪いので笑わないようにしていますが、思わずプッと吹き出す時も。

こんな感じです。

確か小学1年生だったと思うんですが、こんな問題。

つぎのぶんしょうをカタカナとひらがなにしましょう。
(要するにカタカナで表記すべき部分をカタカナに変換するという問題です。)

「ちちはぴんくのねくたいをしている。」


生徒解答:ちちはピンクのニクタイをしている。

なんか18禁っぽい解答なんですけど……。



小学6年生の漢字問題。

田舎に「キセイ」する。


生徒解答:田舎に「寄生」する。

「よぉ〜よぉ〜おやじぃ〜、高速道路の用地買収で、あの田んぼ高く売れたんだろ。新しい車に乗り換えたいから、ちょっと援助してくれよぉ〜。都会じゃボロい車なんて恥ずかしくって乗ってらんないんだよ。」

「お前、それより仕事はどうしてるんだ、新しいところは決まったのか?」

「くだらねえ仕事なんてやってらんね〜よ。もうすぐ一山当ててやっから見ててくれよ。だから頼むよおやじ!」

「本当にあの子ったら……。いつまで経っても親頼み。弟の次郎を見習ってほしいわ。次郎は手堅く役場に勤めて、二人目の子供もいるというのに……。」

……とかいうようなリード文があれば、正解だと思うんですけれど(笑)。

正解は「帰省」です。念のため。

国語に関する珍答:国語塾・宮田塾のブログ

珍答集再び:国語塾・宮田塾のブログ



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言葉の変遷・言葉の乱れをどう考えるか


たまには国語塾らしいことも書かないといけませんね。ということで、今日は「言葉の移り変わりをどう考えるか」について。

皆さんは言葉(特に話し言葉)の移り変わりをどうお考えになりますか?

思うに、言葉は変遷を続けるもの。果てしなく移り変わってゆきつつも受け継がれてゆくのは、その言葉・言語の持つ生命力の証。そんなわけで、私は、言葉が移り変わってゆくことを肯定すべきだというスタンスに立っています。

世界各国の言語をすべて知っているわけではありませんが、日本語はかなり変遷の度合いが大きく、そのスピードも速い言語ではないかと思います。実際、平安時代や鎌倉時代の古文はおろか、明治時代の文語文レベルでも、普通の人には読みにくいわけですからね。アイスランドなんかだと、言語の変遷があまり起きなかったため、300年以上前の文章を小学生がスラスラ読めると聞いたことがあります。

正直に言うと、「言葉」に異常なほど興味を持っているので、新しい言葉が次々に現れ出てくるような状況の方が好きなだけなのかもしれませんが……。



新聞の投書欄なんかを見ていると、定期的に出てくる意見があります。「最近の言葉の乱れはけしからん」「若者言葉の乱れを正さねばならない」「かつての美しい日本語を取り戻すべきだ」といった意見です。

一応私も人に言葉を教える立場にいるので、そうした意見にはとりあえず「なるほど、その通りですね」と相づちを打っておくんですが、先述の通り、本心では全くそうは思っていません(笑)。

「へぇ、すごいですね。ということは、普段から平安時代の文語文法で文章を書いていらっしゃるんですよね?もちろん、使われる語句も古語でいらっしゃるんですよね?漢字はすべて辭書も使わず舊字體でお書きなんですよね?否、萬葉假名をお使ひでせうか。らうがはしき言の葉にて語りたる失禮を許して給べ。向後、貴殿には古の言の葉にて何くれ申し侍らむ。」

なんて嫌味の一つも言ってみたくなります。意地悪ですね。もちろん本当には言いませんけれど(笑)。

でもね、「言葉の乱れ」なんていう観念は、本当に主観的なものだと思うんですよね。自分が学んできた語彙や文法だけを正しいものだと考え、新たな言葉を認めないという姿勢は、頑なに過ぎると思います。

だいたい、「最近の言葉の乱れはけしからん」「若者言葉の乱れを正さねばならない」なんておっしゃる人の使っている言葉は、吉田兼好や清少納言に言わせれば、最低最悪に乱れ、汚濁しきった言葉です。いや、日の本の言葉とすら認めてもらえないでしょう。

徒然草第22段にこんな文章があります。吉田兼好が、故実に明るい人の言葉を引用して、自らの意見を補強しているところです。

いにしへは、「車もたげよ」「火かかげよ」とこそいひしを、今様の人は、「もてあげよ」「かきあげよ」といふ。


昔は「車もたげよ」「火かかげよ」とか言ったものだけれど、今の人たちは「もてあげよ」「かきあげよ」なんて言う。(けしからん。ムキ〜ッ!)

意訳すればこんな感じなんですが、現代人には、どうして「車もたげよ」が良くて、「車もてあげよ」が下品に聞こえるのか全く分からない(笑)。ちなみに、現代人なら「持ち上げろ」というところです。

今まで身につけてきた言葉を忘れろと言いたいわけではありません。今まで学んだ言葉を元に、また新たな言葉が生み出す沃野を楽しめばいい。そして、自らもそうした言葉の変革の一翼を担っているんだと考えられれば、なお楽しいんじゃないでしょうか。



なお、新たな言葉を理解したり楽しんだりすることと、それを実際に使用することはまた別の話です。(兼好も書いていますが)世間では教養がないと見なされると、馬鹿にされてしまいますし、入試ではバツを食らうことになってしまいます。

ちゃけば、こないだもらった桃、ゲロうまでぇ、ウチのじーばーテンあげ↑

なんて大人が話すとヤバイです。

正直に申し上げますと、過日頂戴いたしました桃が、大変美味しゅうございまして、当方の祖父祖母も大層喜んでおりました。

と言うようにしましょうね(笑)。

最後にギャル語の『桃太郎』。マヂうける。ちゃけば、もきゅい!






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「四十歳未満で死ぬのがよい」という説


徒然草を読み直していると、ちょっと面白いなと思う表現に出会うことがあります。徒然草は年齢によって感じ方が異なってくる作品なんですよね。

第7段にこんな話があります。

命長ければ恥多し。長くとも四十に足らぬ程にて死なんこそめやすかるべけれ。


吉田兼好、パンク・ロッカーや(笑)。現代語にするとこんな風。

命が長いと恥ずかしいことも多い。長くても四十歳未満で死ぬのが見苦しくないだろう。


かつてのパンク・ロッカー達は、よく「Don't trust (
anyone) over 30! (30歳以上の者を信じるな!)」なんてわめき散らしていたんですが、700年近く前に兼好法師が似たようなことを言っている訳です。いや、ちょっと違いますか。

こういう趣向のことを言った人については、その後の生き様が気になります。醜い30代・40代になるぐらいなら、美しい20代のままで命を閉じる、という感じでその主義に殉じた人もいたでしょうが、普通はそうはならない。老いさらばえて(?)30代・40代どころか、50歳、60歳になっても生きていたりする。実際、兼好も長生きしたわけです。

おそらくは、「そんなこと言ったっけ?てへっ」「あれはビジネス、本気にするなよ」という感じでごまかすということになるんでしょうが、私はそれでいいんだと思っています。

大体、人間は矛盾に充ち満ちた存在ですし、『徒然草』も笑えるぐらいに矛盾しまくっていますからね。というか、矛盾しまくっているところが愛嬌になっている作品だと思うのです。だから、真剣に一貫性を持たせようと解釈に苦しむ必要はありません。「また兼好のおっちゃん、訳の分からんこと言うてはる……。」と流せばいい。

だから、書評なんかで、徒然草を「日本随一の道徳書」なんて持ち上げているのを見ると、妙な気分になってしまいます。これ、どう考えても変な作品なんだけど(笑)。

兼好の言うことを真に受けず、45歳まで生きている私のプチ読書感想文でした。




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AmazonセールにてKindleを1980円で入手した話


昨日の朝、メールをチェックしていると、Amazonからセールのお知らせが来ていました。電子書籍を読む端末、Kindleのセール案内です。

【3/5まで】注文確定時にクーポンコード『KINDLE0002』を入力すると、Kindle(キャンペーン情報つき、通常価格¥6,980)モデルが¥1,980で購入可能です。2015年3月5日(木)23時59分(日本時間)まで。さらに今なら30日間全額返金キャンペーン中。


あまりKindleに興味が無かったんですが、すごい値引きですね。1980円だったら買っておこうかと早速ポチッ。多分、在庫処分なんでしょうが、ここまで安くなって良いのかとこっちが心配になります。

で、AmazonのKindle書籍売り場をウロウロしてみると、もの凄い商品がありますね。下記の写真を見て下さい。

2015022801.png

『吉川英治全集・111作品⇒1冊』200円
『芥川龍之介全集・369作品⇒1冊』200円
『森鴎外全集・124作品⇒1冊』200円
『夏目漱石全集・122作品⇒1冊』200円
『岡本綺堂全集・242作品⇒1冊』200円


200円って……。200000円でも20000円でも2000円でもありません。200円。缶ジュース一本強。良い時代になったとも言えますが、文豪・作家に申し訳ない気分になってしまいます。命を削るようにして書いた(ほぼ)全作品が200円。私が作家だったら泣きます、泣き崩れます。

もちろん、著作権が切れているので、以前から青空文庫(無料で文学作品を配布しているサイトです)で読めるのは知っていますし、実際、私もよく活用してきたんですが、こうしてタダ同然の商品として提示されると、なんだかインパクト大です。

鴎外や漱石の全集をいつでも読めるように枕元に置いておく、それが電子書籍端末込みで2000円強。衝撃的です。贅沢な話です。

私は岡本綺堂の大ファンなんですが、どこか喫茶店で半七捕物帳をガンガン再読しようと、もう今からワクワクです。

お薦めの作家(明治期-大正期-昭和初期) #2:国語塾・宮田塾のブログ
「そこが芝居だ」歴史ドラマと岡本綺堂:国語塾・宮田塾のブログ



ずいぶん前から思っているんですが、今後、何かものを書いて生計を立てると言うことは、非常に難しい事業になってゆくでしょう。私はものを書くことが嫌いではありませんが、それで生計を立てようなんて夢にも思ったことはありません。

仕事柄から言えば、参考書を出してもいいのかもしれませんが(インディペンデントな電子書籍レベルなら簡単に出版できる時代になっています)、参考書・問題集の類は恐ろしいスピードで陳腐化が進みます。読まれる期間は長くて2〜3年、下手をすると半年ぐらいじゃないでしょうか。そんな事業に貴重な時間は割けません。

参考書の質の良否が問題になるのではありません。社会構造的な問題です。またこの辺りは別の記事にしたいと思いますが……。たまに、書籍を出しませんかという怪しげなセールスを受けることがあるんですが、1時間ほど説教したい気分になります(笑)。

話が逸れました、元に戻しましょう。何せ漱石や鴎外といった文豪の全集ですら200円です。文学の金銭的価値の暴落です。そこらへんの作家の小説なんて、1円ですら高いということになってしまいます。そんな時代に、何かものを書いて暮らそうというのは非常に難しい話。作家はどうして生計を立てていけばよいのか。正直、それは私の問題ではないのでどうでもいいんです。でも、答えは自ずと決まってくるでしょうね。



仕事が終わってからメールをチェックすると、こんなメールが夕方頃Amazonから来ていました。

Amazon.co.jpをご利用いただきありがとうございます。

本日2月27日にお送りしたKindle特別価格キャンペーンのご案内につきまして、予想を上回るご利用のため、予定より早く終了させていただくことになりました。

お客様にはご迷惑をおかけしますが、ご了承いただけますようお願いいたします。


数時間で売り切れちゃったんですね。入手できた私はラッキーでした。


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