宮田塾のブログ

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校長先生の長いお話

校長先生のお話ってなぜか長いことが多いですよね。小学校であれ、中学校であれ、とにかく長い。気が遠くなるぐらい長い。



Youtubeで見かけたこの動画、かなり受けてしまいました。これはさすがに大げさだとしても、生徒の主観からするとこれに近い感じはありますよね。

小中学校時代を振り返るに、夏休みなどの長期休業に入る前のお話がとにかく長くてうんざりしていた覚えがあります。もちろん、先生の話は聞かないとならないんですが、授業とは違って、まるっきり内容がない。つまり誰もがわかりきっている内容を延々とお話しになるわけです。

夏休み中は交通事故に気を付けろ、夏休み中は冷たいものを食べすぎるな、夏休み中は知らない人に付いていくな、夏休み中は早寝早起きをしろ、夏休み中は宿題をちゃんとしろ、夏休み中は……、そんなこと誰でも知ってるって!(笑)

生徒の気持ちや体調を知ってか知らずか、いつ果てることもなく続くお話。誰も(多分担任の先生方も)聞いてやいません。ある校長先生などは、「今日は夏休みが始まるにあたって、皆さんにお話ししておくことが少しだけあります。お話を8つにまとめました。」なんておっしゃったことがありました。全生徒が(そして他の先生方も)心の中で、吉本新喜劇のように「ガクッ」とコケていたに違いない。

ちなみに人間の脳が一時に処理したり記憶したりできる情報量には限りがありまして、こういう場では「3つ」が限界だとされています。炎暑の中、しかも小学生が「8つ」もの話を真剣に聞いて、しかも覚えているということは、大脳生理学的にも全く期待できません(笑)。

誰もが聞いていないと分かっている話を延々とするのは、言葉は悪いですが少しズレていると思わざるを得ません。炎熱に耐えられない生徒がバタバタと倒れてもお構いなしにお話しになっている先生に至っては、問題外。

私の高校時代の校長先生は、そこのところがよく分かっていらっしゃった方でして、夏休み前などのスピーチは極めて短いものでした。

「明日から夏休みです。みなさん元気で過ごして下さい。以上。」

所要時間3秒ぐらいでしょうか。生徒達は、やんややんやの大喝采。いつも拍手・口笛で校長先生を称えていた覚えがあります。

だいたい、あれこれ言われなくても、必死な受験生は勉強に邁進するでしょうし、遊ぶヤツはいくら注意しても同じ事。話しても仕方がない場面で、聞いていない人に延々と話を続けることは無意味であるという、一種のプラグマティズムであったと思います。

今考えてみると、これも一種の教育であったなと思う次第。




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最初で最後のパチンコ体験記

前回もギャンブルの話でしたが、今回ももう少しギャンブルの話。

私もギャンブルを毛嫌いしているわけではありません。競馬なりパチンコなり、それぞれ数回ずつはやったことがあります。ただ、個人的には全然楽しめない。そんなギャンブルに鈍い男の話だとお考え下さい。



私が高校生の頃、周りでは結構パチンコが流行っていました(おいおい)。以前にも書きましたが、私の通っていた府立高校は自由な校風でして、先生方が生徒の私生活に口をはさむことはほとんどありませんでした。しかも制服が無く私服ですから、帰り道に(場合によっては授業をサボって)パチンコ店や雀荘に行く生徒もいるわけです。雀荘で生徒と先生がバッタリでくわして、挨拶を交わすなんてことも時々あったそうで(笑)。

そんなわけで、パチンコの腕がプロ並みなんていう友人もいたりするわけです。そういう友人から、「宮田もパチンコ行こうぜ!おもしろいぞ~。それに儲かるし!」と誘われるわけですが、どうも興味が持てません。クラブ活動なり勉強なりで忙しいですし、趣味に割ける時間は音楽や読書やバイクの方に使いたい。で、高校生時代はパチンコや雀荘を経験しないまま卒業しました。それが普通なんですけれど(笑)。

パチンコを初めてやってみたのは、18歳の頃。志望していた大学に入学して一段落ついた時期です。大学の帰り道、京都の三条に寄ってプラプラと歩いていると、パチンコ屋の看板が目に入りました。

「そういえば、パチンコ好きなヤツがすごく楽しいって言ってたなぁ。一度やってみるか。もう18歳になっているし。」

何気なく入ったパチンコ店の煙たいこと煙たいこと。タバコが大の苦手の私はこの時点で意気阻喪してしまいそうです。まぁ、折角だしと思って1000円ほど玉を購入して打ってみましたが、一瞬にしてパチンコ台に吸い込まれてしまいました。貴重な1000円なのに~!私は目が悪いんですが、その日は眼鏡をかけていませんで、眼でパチンコ玉を追いかけるのもすごく疲れます。

何が面白いのかさっぱり分からない(笑)。しかも1000円が水の泡。「おいおい、何やねんこれは。こんな苦痛を味わうならバイト代を払って欲しいぐらいやで」と心の中でブツブツ文句を言った覚えがあります。



後日、念のため、別の店でパチスロ(スロットマシーンのようなもの)もやってみたんですが、これまた同様の結果。クルクル回るスロットを見るのも邪魔くさいなと思っているうちに、1000円のコインは台に吸い込まれてゆきました。

と、隣に座っているおっちゃんを何気なく見てみると、ものすごくリズミカルに体が動いている。何やこのおっちゃん。さりげなく観察してみると、コインを1枚入れた後、何らかの規則に従ってボタンを押している様子。するとコインが2枚、必ず台からはき出されます。百発百中です。

おそらくこのおっちゃん、(合法的にか違法にかは知りませんが)何らかの規則性を知っていて、コインを稼いでいる様子。「うわっ、これやったら儲かるやん!財産2倍だよ!」と一瞬思ったんですが、よく考えてみると、コイン投入→スロットマシンを稼働させる→眼を酷使してタイミングを計る→コインを2枚ゲットというプロセスが必要ですから、かなりの時間を投入せねばなりません。しかもそのプロセス1回で、差引1枚しか儲かりません。そもそも空気の悪い場所は苦手ですし、やっていて全然楽しめない。普通のバイトより労働感が強いとでも言いますか。

何か素直にバイトでもやってた方が楽しいし儲かるよな、というのがその時の感想。そしてその感想は今も変わっていません。今考えてみると、ギャンブルで身を持ち崩さない自信が付いた分、いい投資だったのかもしれません。





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ギャンブル雑感

某製紙会社のトップが、多大な額の特別背任事件を起こしてしまいましたが、その原因はギャンブルのようです。彼の経歴を調べてみると、一流大学を卒業していますので、人格面はいざ知らず、(偏差値的な意味での)頭は悪くないはず。ギャンブルというのは、人生を狂わせるほどの魅力に満ちたものなんでしょうか。

某製紙会社にすれば、やや高い代償だったかもしれませんが、うっとうしい創業家グループを会社から蹴り出すことができて、案外めでたしめでたしなのかも……って、塾ブログには生々しすぎますか(笑)。

さて、ギャンブルの話ですが、私自身はギャンブルにあまり興味が持てません。人生自体がギャンブルのようなものなのに、二重にギャンブルをしてどうする、大事な運を「人生そのもの」に使わないでどうする、という考えです。ま、人生における運が定量なのかどうかはよく分かりませんので、何となくの話ではありますが。

将棋の羽生名人の本で読んだ覚えがあるんですが、彼曰く、「私は将棋という勝負の世界で生きている。そちらにすべての勝負運を使いたいから、一切ギャンブルはしない。」と。

その気持ちはとてもよく分かります。将棋ほどはっきりと勝敗は出ないにしても、人生ってあらゆる局面で「勝負」があるものですよね。そうだとすれば、人間誰もが「勝負師」とも言える。そこで勝負しないで、ちゃちな金銭のやりとりで勝負してどないすんねん(なぜか関西弁)。

特別背任事件の彼、何年かは刑務所で過ごすことになるでしょうが(結構長そうだ)、人生が限られた時間である以上、100億円の豪遊でも見合わない大損をしているように思えてなりません。




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観光地の望遠鏡

先日、とある観光地に行ってきたときの話です。

観光地によくありますよね、有料の望遠鏡。100円玉を入れると3分程度景色が見られるというやつです。

「パパ~、あの顕微鏡見たい~。」

「おいおい、あれは望遠鏡や。顕微鏡は手元の小さいものを拡大するヤツや!」

1回だけという約束で、100円硬貨を投入します(結構高いなぁ)。息子は大喜びです。

「なぁなぁ、何が見える?」

「何か木が見えるよ。」

「足元の木を見るな~!そんなん肉眼で見られるやろっ!もっと遠くを見ろよ~!」

まだ背が低いので、台を用意してやったこともあり、不自然な景色が見えてしまうのは仕方がないんですけどね。

そうこうしているうちに無情にもタイムアップ。100円を無駄にしてしまった……。

「パパ~、五万円あったら、あの望遠鏡500回見れるん?」

「そりゃ見られるけど、そんなに使うんやったら高級な望遠鏡が買えるぞ……。そもそも集金係の人がびっくりするわ!」

どれだけ無駄遣いするつもりなんだ(笑)。




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「制服」という思想

私の学生時代を振り返ってみますと、制服を着ていたのは、幼稚園・中学生の時代だけです。小学校は制服がありませんでしたし、高校は日本一自由な校風とされる高校でしたので、制服などあろうはずもありません(学生運動が華やかだった頃に生徒会が団交で制服廃止を勝ち取った名残らしい)。

幼稚園は、幼児が初めて家族以外と社会生活を送る場です。そうした場での制服の存在は、「社会生活に規範あり」ということを教える意義があるのでしょう。そもそも、幼稚園で制服なしとなると、なんとなく締まりがない感じがします。一応、こんな私にも、可愛らしいベレー帽を被って幼稚園に登園していた時代があったんですね(笑)。

小学校に上がると、私服だったんですが、服装に何の興味もない私は(男子小学生なんてそんなものだ)、母親の用意してくれる衣服を、何の疑問も持たずに着て登校していました。

中学校には制服の定めがありまして、とても楽だった覚えがあります。「制服=上からの強制・権力主義」という発想も分からないではないんですが、何も考えなくて良いという面ではとても楽ちん。衣服に関してぐうたらな私にとって、制服は非常に便利なシステムなのでした。

で、高校です。我が母校は先程申し上げましたとおり、制服の定めがありません。中学校が結構あれこれとうるさい所であった分、確かに解放感はあるんですが、毎日着ていく服を考えないとならないのはとても面倒。結局、おしゃれにうるさい一部生徒を除いては、ジーンズにTシャツというのが事実上の「男子制服」となります(女子はもう少し気を使っていたような気はしますが)。

私の場合自営業ですから、その頃の習いが今に至るまで続いておりまして、毎日同じような服を着ています。もちろん、不潔なのは嫌ですし、他人にも不快感を与えますから、ちゃんと毎日着替えはします。ただ、毎日あれこれとコーディネイトを楽しむなんていうのは、私の能力を超えているんですよね……(笑)。

そんなわけで、気に入った服があると一気に数着購入します。「このTシャツ着やすくていいな。10着同じの買っておこう。」ちょうど「備品」の感覚です。副代表曰く、「同じ衣服を何着も買うのは馬鹿」とのことで、いつも嘲笑されているんですが、そんなの関係ネェ!(古い)。一度、ユニクロの店員さんに「業者の方ですか?」と聞かれたことがあるんですが、服飾関係の業者さんだったら、もっとおしゃれですから!

塾では、こういうこともあります。

生徒「先生っていつも同じ服着てない?」

私「うん!同じ服を何着も持ってるねん。例えばこのシャツだと、同じのが10枚ぐらいあるよ。毎日着替えているけど、なかなか気づいてもらえないねん。」

生徒「……。」


何か理解しがたいヤツだというような顔をされます(苦笑)。



こういう考え方は、あまり理解されないようなんですが、とある有名人が私とほとんど同じ考え方をしていて笑ってしまったことがあります。

その人はスティーブ・ジョブズ。なんでも山本耀司のタートルネックをいたく気に入り、100着ほどを一気に購入したとか。また、アップル社に制服制度を導入しようとして、社員からの反発を受けたこともあったそうで(確かにリベラルな社風には合いにくい思想だ)。

生前のジョブズは、公式の場に出る際も含め、いつも黒のタートルネック、ジーンズ、ニューバランスのスニーカーでした。決して彼の「制服」を真似ているわけではありませんが、私も普段の格好はそんな感じ。私には、ジョブズの気持ちが良く分かります。




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職業病

先日行われた息子の日曜参観に行ってきました。小学校の授業参観に出かけるのは2回目です。

算数の授業だったんですが、仕事柄、どうしても生徒全体に目をやってしまいます。「手が止まっている生徒はいないかな」「集中力を失っている生徒はいないかな」「あれ、勘違いして別の場所に書き込んでいる子がいるぞ」という感じです。

もちろん、私たちは、授業中にあれこれ指示を出す立場にはありませんから、のんびり見ていればいいんですけれどね。そもそも、息子を受け持っていただいている先生はベテランの方。的確にクラスを掌握してくださっていますから、私たちは何の不安もなく見ていられます(感謝感謝)。

副代表と話しながらの帰り道。副代表曰く、「ついつい『手が止まっている生徒はいないかな』って見てしまうね」「勘違いして別の作業をしている子がいたけど、先生が的確に指摘して下さってたね」。

夫婦共々、同じ職業病にかかっているようです(笑)。




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父と息子の物語


小説であれ、映画であれ、親子の関係を題材にした作品はたくさんあります。そうした親子の物語を分類すると、原則として次の4類型に分類できます。

 1.父親と息子の物語

 2.父親と娘の物語

 3.母親と息子の物語

 4.母親と娘の物語

詳しくデータを取ってみたわけではありませんが、この中で最もよく見かけるのは、「1.父親と息子の物語」であるように思います。

2~4も、もちろん立派な物語になり得ます。子を思わぬ親などいませんし、その思いは無償の愛情ですから、どう料理しても形になります。

しかし、客観的に考えたとき、「父親と息子の物語」ほど、物語性を豊かにはらんでいるジャンルはないのではないか。実際、ハリウッド映画を見ていても、「父親と息子の物語」は嫌と言うほど題材にされています。ほとんど無関係なのではないかと思われる映画にすら、父と息子のエピソードが挿入されていたりする。小説の場合、そこまで極端ではないかもしれませんが、やはりそういう傾向があります。

その理由は何なのか。あくまで私見だとお断りした上で、私の考えているところを説明してみます。



思うに、「父親と娘の物語」「母親と息子の物語」の場合、親から見ても子から見ても相手は異性ですから、あまり相手との競争関係を考えなくて済みます。つまり、純粋な愛情だけの話になりやすい。それが悪いわけではありませんし、とても尊い愛情なんですが、物語としてはやや平板になりがちなのでないか。また、父親は娘を、母親は息子を、ややもすれば「溺愛」しがちなものですが、そうした関係に陥れば、物語性は大きく損なわれます。

次に、「母親と娘の物語」の場合。同性ですから、(心理学的に)一種の競合関係にあるような気もしますが、女性の場合は良くも悪くも現実的。そのため、実際は競合関係に陥ることなく、仲のいい友人類似の関係になることが多いのではないか(親子で競合関係に立っても益が少ない)。少なくとも、父親と息子のような暑苦しい関係になることは稀で、ややドライな関係になりやすいように思います。ドライな関係は物語性に乏しいわけで、これまた作品としては平板になりがち。

問題は、「父親と息子の物語」です。理想的なのは、父が息子を愛し、息子が父を敬うという関係でしょうが、こうした関係になることが少し難しい。またなったとしても、子は父を乗り越えようとする本能が付与されているため(少なくとも私はそう思う)、深層心理的に、または実際に、敵対関係・競合関係にならざるをえない。

加えて、息子が父親を乗り越えれば乗り越えたで、息子にも父にも「喜び」「寂寥感」という相反する感情が訪れる関係です。

「俺は父を追い抜いた!しかし、父も年老いた……。」

「息子が立派に成長した!しかし、俺も年老いた……。」

この感情は、愛する人・尊敬する人との別れの序章でもあります。

ちょっとロマンティックすぎますかね?私が思うに、男って、ある意味「バカ」なんです。どうでもよいことにこだわったり、張り合ったりするのは、絶対に男性なんですよね。「バカ」という言葉が悪ければ、現実から遊離しがちである、と表現しても構いません。

この複雑な関係。この関係こそが、「父と息子」の物語性を深からしめるのではないか。それが私の考えです。



私は30歳の時、父親を失いました。肺ガンが発見された頃には、末期で手の施しようがありませんでした。医師からは1年4ヶ月の余命を告げられましたが、その宣告から9ヶ月で父は世を去りました。私にとっての「父と息子の物語」は、唐突に終わりを告げたかのように思えました。

しかしその数年後、男の子を授かり、図らずも「父と息子の物語」が再び始まりました。今もう一度、父親と息子の物語を生きる。立場を子から父へと変えて、この物語を生きる。息子が生まれたとき、そんな風に思ったことを覚えています。

この「物語」はすでに6年の歳月を閲していますが、これからもますます面白くなりそうで飽きることがありません。



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横浜ベイスターズの買収と妄想

私、プロ野球には全然興味がありません。最近は球団名やペナントレースの仕組みもコロコロ変わっているようで、何が何だかよく分からない。

社会的にプロ野球の人気が陰ってきているのかどうかは分かりませんが、以前ほど小中学生から、「先生ってどの球団のファン?」と聞かれなくなったような気がします。子供の世界はプロサッカーにシフトしてきているんでしょうか。「先生、野球はよく分からへんねん、ごめん」などという愛想のない返事をしなくてすむようになったのは有り難いところ(笑)。

そんなわけで、最近持ち上がっている横浜ベイスターズの買収話も、ごくごく普通のニュースとして見出しを読むだけでした。

昨夜、何気なくネットのニュースを読んでいると、新球団名が「横浜DeNAベイスターズ」に決定したとの由。某新聞社の某オーナーがブツブツ文句を言っているという話は聞いていたけれど、結局話は何とかまとまったんだな……。で、報道写真を見ると、何だか見覚えのある顔が写っています。

ひょっとしてと思い、DeNA社について調べてみると、やっぱり。代表取締役会長のH氏、私の大学の同級生でした。しかし、球団オーナーとは面白い仕事をしているんですね。今は付き合いもないので、全く知りませんでした。ゲーム経済界では、とうの昔から有名人だったようなんですが、TVをほとんど見ず、ゲームも全くしない私のような人間には遠い世界の話です。昨日までモバゲーの「デーナ社」だと思ってましたよ……。大変な仕事だと思いますが、頑張って欲しいと思います。



私がもし何かスポーツチームのオーナーになれるなら、やっぱりMotoGP(世界最高峰のオートバイレース)に参戦したいですね。

バイクというと、日本では「不良・反社会的」という悪イメージがあるようなんですが、これは全くの誤解。日本の教育界のミスリードだと思います。ヨーロッパでは、バイク=中年以降に嗜む上品な趣味というイメージがあるそうでして、羨ましい限り(この辺り、乗馬文化と関連があるのかも)。実際、オートバイレースの社会的地位はとても高く、非常に人気があります。イタリアでは、サッカーの中田よりレーサーの加藤大治郎の方がはるかに知名度が高い、というのも有名な話です。

MotoGPに参加するとしたら、ホンダのマシンかな、それともヤマハかな、いやドゥカティのデスモセディチで行くのもいいよな、ライダーはヴァレンティーノ・ロッシと契約しようか、いや才能溢れる若いライダーを発掘するのもいいな、とすれば、Moto2クラスのライダーかな、うふふ。

ついつい、あり得ない想像に耽ってしまいます。野球であれ、MotoGPであれ、世界が違いすぎて参入に何十億円かかるのか想像も付かないんですが、まぁ妄想ですから……。

それにしても、「チーム宮田塾」だと遅そうだよな、何か速そうなチーム名を考えないとな、う~ん(って、真剣に考えなくていい)。




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短文作成問題の解答法


指定された単語を含む短文を作るという問題(短文作成問題)は、中学入試でもそれなりに出題されます。

その時の注意点として、私が授業で指摘しているポイントは次の通り。

 1.主語・述語がしっかり対応した文を作る

 2.指定された単語を理解していることをアピールする

もちろん、字数制限があればそれに従わねばなりませんが、そんなことは指摘するまでもないでしょう。

1.主語・述語がしっかり対応した文を作る

小学生の答案を見ていると、意外に出来ていないことが多いのがこの点です。最近の授業で取り上げた「むしろ」という語を例に説明してみましょう。

 むしろ本を読みたい。


どうですか?かなり唐突な感じがしますよね。

主語が示されていませんし、後ほど説明する「単語の用法の理解」も示されていないのが、その原因です。少なくとも、主語と述語はしっかり対応させて欲しいですね。

 私はむしろ本を読みたい。


一歩前進しました。細かいことを言えば、「私は」という部分は「主語」というより「主題提示」ですが、中学であれ大学であれ、受験レベルでそんな細かいことは気にしなくて構いません。

あと、「文」になっていないものはもちろんダメです。言い換えれば、「句」や「節」のレベルで止まっていて「短文」にすらなっていないものは不可だということです。

2.指定された単語を理解していることをアピールする

試験一般に言えることですが、もっとも大切なのは、採点者に「理解している」ということをアピールすることです。例えば、英文和訳の試験問題なら、こなれた意訳なんて目指すべきではありません。文法構造や単語の理解を示す直訳の方がはるかによい。(もちろん、それは試験政策上でありまして、試験を離れて勉強する際は、そんなセコいことは考えなくてよいと思います。)

そんな考えから、中学入試における短文作成でも、「私はこの単語・表現の使い方を知っていますよ」とアピールしてもらうよう指導しています。美文や名文をものす必要は全くありません(そもそもそんなのは短文じゃ無理だ)。少々不細工な文章でも構いませんから、しっかりと語の理解をアピールするべきです。

先程の「むしろ」という表現を考えてみましょう。

明鏡国語辞典によると、次のような語義が示されています。

二つの事柄のうちどちらを選ぶかと言えばこちらの方がよりよいという意を表す語。どちらかといえば。


私が思うに、この語のポイントは、

二つの事柄を比較・選択する際に使うということ

積極的に選択しているというより、消極的に選んでいるというムードがあること

の二点でしょう。

もちろん、小学生がそこまで明確に意識化する必要はないと思いますが、指導する側としては、さりげなくその辺りを意識できるように持っていきたいところです。

いままでの要点を前提にしますと、

 私は音楽を聴くより、むしろ本を読む方が好きだ。


といったところが、入試問題の解答としては適切でしょう。



誰ですか?ダジャレを書きたがる人は。

 むしろの上に座って、犬の毛をむしろう。


試験では0点です(笑)。



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