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司馬遼太郎・司馬史観・なつかしい人

司馬遼太郎の作品は結構読んでいる方だと思います。いま思い浮かぶ長編歴史小説でいえば、翔ぶが如く、坂の上の雲、花神、関ヶ原、城塞、世に棲む日々、峠、項羽と劉邦、菜の花の沖、燃えよ剣などなど。他にも読んでいると思うんですが、もう記憶があいまいです(笑)。

読み始めたきっかけは父。父は司馬ファンでして、家の書架には司馬作品が一杯並んでいたんですね。本好きな子供は、手の届くところにある本をついつい読んでしまうわけで、小学生高学年頃から司馬作品をチョロチョロ読み始めていたような覚えがあります。

そんなわけで、司馬遼太郎の作品にはかなり昔から親しんでいるんですが、司馬ファンかと言われると、ちょっと返答に困ってしまいます。あまりにも日常的な作家とでもいいますか……。

「あなたは毎日空気を吸っていますが、空気のファンですか?」と聞かれたら困りますよね?「あなたはよく道の上を歩いていますから、きっと道のファンなんですね!」と決めつけられたら笑いますよね?

私にとって、司馬遼太郎はそういう感じの作家です。

別の稿でも書きましたが、司馬遼太郎の魅力は、文学味があえて消されているところ、つまり、難解さ・ケレン味が意識的に回避されているところだと思います。それでいながら、その作品の底には「文学性」が流れている。私は、司馬遼太郎の文章を、「大人の姿勢」を取りつつも「子供の魂」を秘めた文章、ある意味、とても文学的な文章だと考えています。

そういう立場からすると、「司馬史観」という言葉には、かなりの違和感を感じます。もちろん、司馬遼太郎に独自の歴史観があったことは確かです。しかし、この「司馬史観」という言葉は、反論を許さない強い歴史観というニュアンスを多分に含んでいる。祭り上げられるにせよ、批判されるにせよ、「司馬史観」という言葉・概念は、司馬遼太郎の本意に沿うものでなかったことは間違いありません。個人的には、司馬作品にあまり親しんでいない人が使う用語だという気持ちがあります。

宮城谷昌光氏が『司馬遼太郎の考えたこと(第15巻)』の後書きとして、こんな文章をお寄せになっています。

人はてがるに司馬史観という。が、自分はそのいいかたを好まず、信じもしない。司馬さんが観つづけたのは、人であり、ことばではなかったのか。
  (中略)
司馬さんは詩人である、とこころのなかで断言している。
詩うという行為はもともと神にたいしてなされるものである。司馬さんの場合、神は天ということばにおきかえたほうがよいかもしれない。天にむかって詩われたものを、そのひびきを、そのこだまを、読者はきいているのかもしれない。だがそのことばは何という温かさと優しさにみちていることであろう。そのことばが天に放たれ、天から返ってきたものであるなら、人は司馬さんの作品を読んで、天の高さを知るであろう。


さすが宮城谷昌光氏。加えるべき言葉が見つかりません。

ちなみに、別稿でも取り上げた『司馬遼太郎の考えたこと(全15巻)』は、後書きが抜群に面白い。第14巻は、政治学者・防衛大学学長の五十旗頭真(いおきべ・まこと)氏が「にじみ出る人間への愛情」と題した文章を執筆していらっしゃいます。

1968年のこと、京大で「明治維新は革命か」というテーマで講演会を開くことになる。学生だった五十旗頭氏は、片思いの司馬遼太郎にダメもとで電話をする。信じられないことに快諾する司馬遼太郎。法経第一教室で行われた講演会は大盛況だったが、問題は謝礼の件。司馬遼太郎の相場はケタが違うということを知っていた五十旗頭氏、おそるおそる謝礼を差し出す。

「なんや、それ、変なことやめとき。それより、部屋とってあるから、おいで。」司馬さんは祇園に親しい関西の文化人、学者の先生方を集めておられ、われわれ学生もその中に入れてもてなして下さった。こんな「講演料」が世の中にあるものだろうか。


「雅量」とはこういう時に使う言葉なのでしょう。

以前取り上げたドナルド・キーン先生の文章も第13巻に掲載されています(もとは「週刊朝日別冊」に掲載された文章)。

いつか司馬さんは私のことを「なつかしい人」と呼んでくださった。私は大変嬉しく思ったが、意味がよく分からなかった。が、司馬さんがもうこの世の人でなくなった時、さまざまのご親切を思い出すと、実に「なつかしい人」としか言えない。りっぱな人物、優れた作家、なつかしい人。


「なつかし」という語は、本来、「なつく」という動詞の形容詞形。人や物に心が引かれ、離れたくないという気持ちを表します。現在のように懐古の意味を持ち始めるのは、中世以降のこと。おそらく司馬遼太郎は、本来の意味でこの語を使われたことと思います。

司馬遼太郎のファンかと聞かれると返答に困ってしまう私ですが、司馬遼太郎が「なつかしい人」であるという表現は、心にぴったりと沿う言葉であります。

<参考記事>
『司馬遼太郎が考えたこと』第1巻~第15巻:宮田塾のブログ
ドナルド・キーン先生のこと:宮田塾のブログ
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