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映画『かぐや姫の物語』と『竹取物語』


映画『かぐや姫の物語』を見てきました。

結論から書きます。

とても素晴らしい作品です。『竹取物語』の真髄を余すところなく捉えています。そして、この作品は、愛する者との別れを知る人、愛する者との別れを我がものとして想像できる人に向けたものだと思います。もっと言えば、子をなした経験のある大人向きの作品です。

もちろん、ストーリーが難しいわけではありませんから、子供が見て分からない作品ではないでしょう。しかし子供がその真価を味わうことは難しいだろうと思います。

以下、ネタバレもありますので、ご注意下さいね。



12月1日は、日曜日かつ映画の日(どの映画も1000円で見られる日)。出向いたシネコンは、ほとんどのスクリーンが空席なし、満員御礼でした。我が家は、私という有能なダンドリストがいるので(笑)、席にあぶれたりはしません。段取りよくネット予約しておいた座席指定チケットで入場です。

場内に入ってあたりを見回すと、観客層は老若男女、幅広いですね。さすがジブリ作品。前回の映画の日には、ピクサー作品を見たんですが(『モンスターズ・ユニバーシティ』)、この両スタジオの作品には、対極的なところがあります。

ジブリ作品には、濃密な死の香が立ちこめ、不可避な破滅の予感が漂っています。この『かぐや姫の物語』も正にそう。一方、ピクサー作品では、そうした危うい死の予兆は徹底的・意図的に排除されています。アニメには詳しくありませんが、その肌触りは、日米の国民性・芸術観の差異を如実に表していると思うんですよね。この辺り、またブログ記事にしてみたいと思っています。



さて、この『かぐや姫の物語』、言うまでもなく古典文学の『竹取物語』を原作としています。『竹取物語』は学校の古文教科書でよく取り上げられるため、原文でもお読みになったことがある方が多いと思うんですが、みなさんは『竹取物語』と聞いて、どんなシーンを想起されるでしょうか。

光る竹の中にかぐや姫を見つける翁?

無理難題を求婚者に突きつけるかぐや姫?

帝まで迷わせるかぐや姫の清らかな美貌?

想起されるイメージは人によって異なるとは思うんですが、『竹取物語』って、すごく映像的イメージの強い物語ですよね。そしてその映像がどれも清楚な美しさに包まれている。まさに「竹」のイメージです。

しかし、私が個人的にこの物語の本質だと思うのは、「親子の別離」、もっと広く捉えれば「愛し合う者たちの別れ」です。

涙ながらに、月へ帰らねばならないと告白するかぐや姫に、翁は大声でこう言います。

翁、「こは、なでふ事をのたまふぞ。竹の中より見つけ聞こえたりしかど、菜種の大きさおはせしを、わが丈立ち並ぶまで養ひ奉りたるわが子を、何人か迎へ聞こえむ。まさに許さむや」と言ひて、「われこそ死なめ」とて、泣きののしること、いと堪へ難げなり。


小さな小さなお前を愛し慈しみ、ここまで育てたのだ!誰が迎えに来るというのか!どうしてそんなことが許せよう!お前がいなくなるなら私は死ぬしかない! といった意味です。

月へ召還されようという十五夜の日、嫗(おうな)は娘をひしと抱きかかえます。言葉はなく、ただただ引き裂かれるのを避けたい一心で。

嫗、塗龍の内に、かぐや姫を抱かへてをり。


かぐや姫はこう言います。

御心をのみ惑はして去りなむことの、悲しく堪へ難く侍るなり。かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。さる所へまからむずるも、いみじく侍らず。老い衰へ給へるさまを見奉らざらむこそ、恋しからめ。


父上母上の途方に暮れるお心を考えると、堪えがたくてなりません。不老不死など何になりましょう。父上母上と一緒にいて、これからを見申し上げられないことが辛くて辛くて……。

しかし、最も切ない場面は次のシーンです。かぐや姫は月の使者から天の羽衣を受け取ります。大切なところなので、意訳ではなくもう少し正確な訳を付けておきます。

ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほし、愛しと思しつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して、昇りぬ。


さっと天の羽衣を着せ申し上げると、かぐや姫からは、翁をかわいそうだ、愛しいと思っていた気持ちも消えた。この羽衣を着た人は、思い悩む気持ちも失われてしまったので、天の車に乗って、百人ほどの天人を連れ、月へと昇った。

つまり、かぐや姫からは愛情や思い出がすべて消え、月という別世界に旅立ってしまいます。もう涙を流すこともなく、振り返ることもなく……。

私には、これは「子との死別」の比喩だと思えてなりません。死出の旅路に出れば、今までの思い出も、暖かいふれ合いも、何もかもが消えてゆく。二度と会うことはかなわず、子が自分に何かを語りかけてくれることもない。己の心中の子のイメージを何時までも何時までも抱えて、血を流すようにして生きて行くしかない。物語には記されていませんが、この後、年老いた翁と嫗が長生きできたとは思えません。そして、翁も嫗も長く生きることを望まなかったような気がします。



随分前置きが長くなりましたが、上記のように『竹取物語』を捉えている私からすると、この映画『かぐや姫の物語』は、とても適切な解釈を示しているように思えました。

映画では、原文にはない、かぐや姫の誕生から美しい娘に成長するまでの期間が、これでもかこれでもかと丁寧に描写されます。それは、我が子が成長することを無上の喜びとする「親の視点」です。子供を育てた経験のある人ならば、赤ちゃん(かぐや姫)の動きや幼い子ども(かぐや姫)の無邪気さが、自然かつ巧みに表現されていることに感動されると思います(私は感動しました)。

そして、このかぐや姫の幼少期の執拗な描写があるからこそ、最後の親子の別れが説得力をもって迫ってきます。

天衣無縫という言葉がぴったりの娘。まっすぐに育った輝くような美しさの娘。どんな宝も代わりはできない我が娘。その娘を、月からの使者が迎えに来る……。映画では、使者達は西方極楽浄土からの迎えの者のように描写されます。それは彼岸への旅立ちを思わせます。私は、「我が子との死別」の比喩だと捉えました。

天の羽衣を着ることによって今までのすべての記憶が失われる、そのことを知っているかぐや姫は父母との別れを惜しみますが、否応なく別れの時は迫ります。そして羽衣を着ると、原作同様、かぐや姫は振り返ることなく月へと旅立ってしまいます。

しかし、しかし。

この映画『かぐや姫の物語』では、最後のシーンで、月に向かう途中のかぐや姫が地球を振り返り、涙を流します。これは物語に、そして観客に、本当に大きな救いをもたらしていると思います。

大きな愛情で包まれていた親子が、どんなに離れても、二度と会えなくても、互いの思いでつながっている、切ない思いだけれど、思いという面では親と子は切り離され得なかった。そんな親子の絆と切なさがテーマだと分かったとき、恥ずかしながら、私は涙を禁じ得ませんでした(隣で見ていた妻も、まわりの中年女性もみな涙していました)。



原文では、月に帰るまさにその時、かぐや姫は帝に文などを残すんですが、それは現代的な解釈からすれば、やや冗長に思える部分。この映画が、その辺りをバッサリ切り捨てているのは英断だと思います。親子の情愛がよりクリアに見えるからです。

なお、映画内では、かぐや姫や周りの子ども達が「とり むし けもの……」と自然賛歌を歌うんですが、平安時代に「自然」を総体的に捉える観念が無かったことを考えると、やや現代的な解釈が勝ち過ぎているとも言えます。しかし、それは作品の素晴らしさを毫も減じるものではありません。ジブリ作品らしいメッセージとして素直に受け止めました。



映画『かぐや姫の物語』、繰り返しになりますが、私は上記のような意味で、子をなした経験のある大人向きの作品として大傑作だと考えます。興味のある方は、是非ご覧頂きたいと思います。

かぐや姫の物語 公式サイト




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